雑誌「珈琲と文化」2020年秋号に掲載された拙稿です。コーヒーの2050年問題について考えてみました。
美味しいコーヒーを作るには、コーヒーの木と実を健康に育てて、完熟した実のみを丁寧に摘み取ればよい。それがポテンシャルを最大に引き出す。コーヒーという農作物が本来持つ味だ。しかし、単純だけど実践はとても難しい。
健康な完熟実だけを摘むと、フルーティーでクリーンなコーヒーになる。甘味さえ感じる。逆に、いい加減に摘むと雑味が増えて苦くなる。もちろん深く焙煎すれば苦味がでる。それは良い。しかし、カッピング用の焙煎度合い(ミディアム)でも苦味が出るコーヒーは、いい加減に育て、いい加減に収穫したもの。
植え付け、栽培、収穫、乾燥、保管、精選、輸送、焙煎、抽出、そしてお会計。川上から川下まで何十もの工程があるなかで、最も重要な仕事の担い手は畑の労働者だ。彼らが美味しいコーヒーの価値の源泉だ。なのに、彼らの取り分が最も少ない。
私は農園主ではあるが、ピッカー(コーヒーを摘む労働者)でもある。コーヒーを摘みながら、他の産地のピッカーに思いを馳せる。作業の余りの辛さに、連帯感まで感じる。一説によると、世界で3000万人がコーヒーを摘んでいるらしい。彼らのおかれた惨状を考えると深く同情する。
最近、「コーヒーの2050年問題」なる言葉を頻繁に聞く。地球温暖化で2050年には栽培可能な耕地が50%減少してコーヒーが飲めなくなるから大変だという話。
気候変動による耕地面積の縮小は我々コーヒー農家にとっても、コーヒー愛好家にとっても由々しき問題だ。しかし、なんだか違和感を感じる。別に私は温暖化懐疑派ではない。本当に深刻な問題だ。また、温暖化問題をコーヒーという身近な日常に落とし込んで、正義を振りかざす「意識高い系」の態度が鼻に付くという訳でもない。私の違和感は「あなたは、そんな将来にまで、まだ彼らにコーヒーを摘ませる気か」という事である。
日本人でこの仕事ができる人はまずいない。日本から来た友人で3日以上、体がもった人はいない。ハワイでもきついのに途上国ではなおさらだ。不安定な季節労働。劣悪な住環境。一日数ドルの低賃金。重いバスケットを腰に付けての重労働。
こんな劣悪な環境でなければ、コーヒーが一杯100円はありえない。コーヒーピッカーだって、好きでやっている訳ではない。途上国の、さらに最貧の山間部の人々が止む無く換金作物を手掛けているだけだ。そりゃ、日本のテレビ局が取材に来れば、幸せそうに笑顔でコーヒーを摘んでみせるさ。でも、彼らだって、コーヒーなんか摘むより、エアコンの効いたコンビニで「Irashaimase~」とコーヒーを売る側になりたい。あわよくば、コンビニでコーヒーを買う側の人間になりたい。そう、彼らだって豊かになりたいのだ。
100年前(ほんの4世代前)の日本やアメリカは国民の大多数が農民だった。この100年間の経済成長は、生産性の低い農業から生産性の高い工業・サービス業へ労働力が移転して達成された。同時に農業の生産性も上がった。昔は人口の8割の農民が国民を養っていたのが、今や農業従事者は2~3%程度。それで養える。中国は改革開放後40年。この道筋の半分くらい(農民が人口の半分くらいまでに減少)、たった1~2世代で驚異的な発展を示した。
1970~80年代には、人口爆発や食糧危機が問題だと教わったが、今では状況は変わった。アフリカなど人口が増加している地域もあるが、おおむね人口増加は鈍化している。日本などは減少が大問題で、それに続くとされる国も多々ある。2050年ごろには世界の人口増加は止まるという予測もある。つまり、人手は次第に足りなくなる。
今は食糧危機という言葉も聞かない。飢餓は存在するが、分配の問題で、全体的には食糧は不足はしていない。むしろ国際貿易交渉では、食糧の余剰が問題だ。アメリカや欧州各国は食糧輸出国へと転じ、食糧市場の支配を強めている。先進国の農業は効率的で低コストなので、途上国が農業で活路を見出すことはますます難しい。
現在コーヒーを生産している途上国が経済発展をするには、農業にしがみついていても勝算は少ない。観光農園、アグロツーリズム、地元特産品での村おこしのアイデアもよいが、日本でさえ、補助金申請の道具にはなるが、生産性向上の決定打にならないものが、途上国を劇的に豊かにするとは思えない。やはり、先進国がたどったように、農業から工業・サービス業への転換が希求されよう。コーヒー生産地の山間部の農民が都市へ移住するような発展スタイルとなる。
これまでは、山奥にコーヒーを植えて、地元民に職を与えることで生活が改善できた。タイの王室の資金で、アヘン生産地帯をコーヒー産地に変えたドイトゥン地区などは、確かに素晴らしい試みだ。
コーヒー業界は我々がコーヒーを飲むとき、それが生産国の人々を助けているというストーリーを伝える。どれだけ過酷な労働を強いているかは抜きにして、美談として伝えられる。今はそれでも良かろう。しかし、そのノリの延長で、意識高い系の「コーヒーの2050年問題」は、30年後(今のピッカーの子供や孫たちの時代)も、彼らをコーヒー畑に縛り付けておくことに何の疑問を持っていないように聞こえる。
確かに、経済発展と環境保護は対立する難しい問題だ。温暖化を食い止めるために、経済発展のあり方は工夫が必要だ。でも、30年後も、我々がプラスチック容器に入った冷たいフラペチーノをストローで吸い上げる快感を味わいたいがために、彼らを雨のコーヒー畑に濡れネズミにさらし続けるとしたら、それは悲しい未来だと思う。
残念ながら、美味しさに最も貢献している労働者に対する報酬は最も低い。それは歴史的な植民地主義、それに続く南北格差の遺産だ。先進国と途上国の格差もそうだが、農園主(地主、つまり植民地時代の支配者の子孫)と労働者(被支配者の子孫)の格差もある。現代は、映画「愛と悲しみの果て(Out of Africa)」のコーヒー農園ほど露骨でないにしても、日本のテレビ番組で中南米のコーヒー農園の紹介が出たら注意して観ていただきたい。まず、取材班を白人の農園主一家が古いプランテーションハウスで出迎える。先祖から受け継いだ農園の歴史を語り、次に農園で慣れない手つきでコーヒーを摘んで見せる。土など触ったこともなさそうなきれいな指だ。とてもピッカーの指には見えない。その背後に映るのは実際に働く、ごつい指をしたインディオたちだ。
ここで、農園主が労働者を搾取していると断罪するつもりはない。しかし、たとえば、日本人消費者がイメージする中南米コーヒー農家はソンブレロを被ったちょび髭の白人系のおじさんだろう。しかし、その下で働くインディオの血の混じった男女にも思いを馳せてほしい。アメリカとメキシコの国境の壁をよじ登ろうとして追い返される人々だ。トランプ大統領が忌み嫌う人々。彼らこそコーヒーの価値の源泉だ。
我々が喫茶店で飲む一杯のコーヒーの値段のうち、コーヒー農家に渡るのはほんの1~3%しかないという話はコーヒー愛好家なら誰もが耳にしたことはあるはず。しかし、その1~3%というのは農園主、農協あるいは自営農に渡る金額で、農園主の下で働いている労働者へ渡る取り分はさらに桁外れに少ない。
仮に、ピッカーが一日200ポンド(約90キロ)の実を摘んで、3ドル(約300円)を稼いだとする。それを乾燥して生豆にして焙煎するとコーヒー1,200杯分だ。一杯当たり25銭(=300円/1200杯)がピッカーの懐の渡る勘定になる。仮に、喫茶店で飲む手済み完熟の高級コーヒーが一杯500円とすると、25銭/500円=0.05%がピッカーの取り分。そのコーヒーに最も価値を与えているのは「手済み完熟」の部分、サプライチェーン中、最も過酷な労働で、その商品に最大の価値を与えている仕事、美味しさの源泉に、たったの0.05%の報酬。何かが変だ。これが企業ならこんな無茶苦茶な報酬体系の会社は潰れる。
物価水準が違うとのご批判もあろうが、例えば、日本とホンジュラスの物価水準の違いを調節すると、ホンジュラスで一日3ドル稼ぐのは、日本で一日約700円を稼ぐ(時給ではなく日当)程度。いずれにしろ、彼らの取り分は少ない。
ほとんどの消費者はコーヒー農家というと農園主のことだと思っている。商社の買い付け担当も、産地に視察に行ったカフェのオーナーも農園主としか会わない。実際に働いている労働者から話を聞く人はいないだろう。だから、よくネットにある日本人の農園訪問レポートは、労働者の仕事の事よりも農園主の視点が強調される。気候や土壌(先祖からたまたま受け継いだもの)、品種、精製方法の記述ばかりだ。精製方法にしたって、水洗式、ナチュラル、セミナチュラル、パルプトナチュラル、ハニー、ブラックハニー、レッドハニー、イェローハニー、ホワイトハニー、ドライファーメンテーション、酵母菌発酵、乳酸菌発酵、Etcという単語が踊る。
確かに、ナチュラル製法や酵母菌発酵をさせると、強い特徴が出る。ちょっと珍しい。だから農園主は躍起になる。それを農園を訪問した日本人も得意になって日本語に訳す。でも、所詮、乾燥の仕方などは点数稼ぎの小手先の工夫だ。
酵母発酵などは、ワイン用の酵母を生産している会社から何種類か酵母を取り寄せて、2日、3日、4日と発酵時間を変えて、どの酵母でどの気温で何時間発酵させると良いかを探るだけのこと(畑により最適な酵母菌の種類と発酵時間は異なる)。私の場合は数種類の酵母菌を試し、シーマという酵母菌を72時間発酵させるのが最適だった。種類と時間の組み合わせで、数十通りのサンプルを試すだけの、ごく簡単な工夫だ。1年もやれば大体の勘はつかめる。農園によっては企業秘密だともったいぶるが、うちの場合はシーマの72時間。秘密にするほどの事でもない。そんな事よりも、木を健康に保ち、きれいに収穫する方が、はるかに難しいし、大きく味に影響する。けれんみのないコーヒー本来の味だ。農園主の小手先の工夫よりも、農園で働いている労働者の働きの方が、ずっと大切だ。
私はリバタリアン(経済的自由と社会的自由の両方を希求)的な思考が強すぎるかもしれない。私が働いたNYはそういう場所だった。世界中から人材が集まり、自分の才覚を頼りに競争させてもらえた。我々のチームでは食べ物や生活習慣に関する個人の好みや、思想や、支持する政策に関して同意や共感を得るのは全く不可能だし、組織防衛のため多少の後ろめたいことには目をつぶる感覚はない。しかし、運用成績を上げて金を儲けるという目標を全員が共有する事には一ミリの誤差もなかった。私のチームにはアメリカ人の他に日本人、インド人、パキスタン人、中国人、韓国人、メキシコ人、カナダ人、トルコ人、フランス人、ギリシア人、台湾人、パナマ人、プエルトリコ人、イラン人などがいて、その中には、ユダヤ人もカトリックもプロテスタントもイスラム教徒もヒンズー教徒も仏教徒もいた。私のボスはイタリア人で、その上のボスは女性や韓国人で、そのまたボスは黒人だった。国籍、人種、宗教、性別等の差別を排し、結果の平等よりも機会の平等を重視する場所だ。リバタリアンというと日本では自己責任論ばかりが強調されるが、機会の平等が前提なのだ。
だから、日本人に生まれただけで、コーヒーを売る側として働けば最低賃金が保証されるのに、中南米やアフリカに生まれたら、たとえ同じ程度の能力を持っていても、コーヒー畑の重労働で一日3ドル程度しか稼げない現状には不条理に感じる。日本ではフェアートレードのコーヒーを飲んで、今日も良いことをしたと自分を褒めて片が付く程度の問題としか捉えられていない。たぶん日本人も不条理は感じるが、スター・ウォーズのルーク・スカイウォーカーの故郷、2つの夕陽が美しいタトゥイーンと同じくらい遠い世界での出来事なのかもしれない。
しかし、これが日本で起きたらどうだろう。もし、私が日本で生産国並みの賃金と環境下で日本人にコーヒーを摘ませたら、えらいことになる。大勢を狭い寮に押し込め、1日10時間働かせて日当330円。しかも、夕方、持ってきたチェリーを摘み方が乱暴だと突き返し、その日の日当は払わない(美味しいコーヒーの為にはここは譲れない)。こんなことをしたら、たちまちNHKスペシャル取材班がやってきて社会問題になる。近所の病院は腰痛患者であふれかえる。「コーヒー摘んだ。日本死ね」と誰かが呟き、野党議員が飛びつく。そして週刊文春は10週連続で特集を組む。「悪魔のように黒く、地獄のように熱いコーヒー農園」、「コーヒー、ブラック農園」、「途上国は出来て、何故お前にできない。農園主逆切れ」、「グローバル経済逆流」等々が電車のつり革広告を賑わす。
自由主義の隆盛で我々の社会は前の世代と比べると格段に社会的寛容を増した。この傾向はさらに進み途上国へも拡散するだろう。将来は「#コーヒー摘み日当3ドルMe too」などと農園主や商社が槍玉にあげられるネット上の運動が起きるかもしれない。しかも、こともあろうか30年も昔の出来事にさかのぼって。
先進国では、資本主義や自由主義が国内の経済格差を生んだと懸念されるが、その格差の原因の一端は、経済のグローバル化で途上国(特に中国)の人々に仕事を奪われたという事だ。日本では相対的貧困という概念が考案されたが、それは途上国での絶対的貧困が減ったことの裏返しだ。コーヒー生産国から見れば大いに結構なことだ。中国に続けだ。先進国ではこの反発から、自国第一主義、他国排斥主義が台頭している(日本は昔から稀に見る他国排斥主義だからあまり変わりないけど)。しかし、閉鎖主義、保護主義は経済的に非効率的なので、永続するとは思えない。
ましてや、様々な分野でのIT化やブロックチェーンの登場により、国家の保護(規制)に頼らないビジネスモデルが登場している。ますます、情報と資本は国境の壁を越え、途上国への産業と雇用の移転は続くだろう。人工知能が発達し人間の能力を超える(シンギュラリティ)時代を迎え、コンピューターやロボットが人間に取って代わり、ほとんどの人類が職を失い、すべての産業と富がシリコンバレーに吸い込まれるようなことでも起きない限り。
楽観的かもしれないが、私は思う。コーヒー生産国はやがて経済発展する。それが自立的なのか、アメリカ経済や中国経済に従属する形なのかは分からない。それは30年後ではなく、もっと先かもしれないが、きっと、彼らの孫、ひ孫の時代には、貧しい山奥から都会へ出る。私のようにお金の世界に背を向けて農村に住む人は少数派だろう。あるいは在宅勤務が発展し、都会の仕事が山奥へ来るかもしれない。いずれにしろ今の賃金水準でコーヒーを摘んでくれる人はいなくなる。
ついこの前まで、中国と言えば、人民服に人民帽のおじさん達が大量に自転車で通勤する風景を思い浮かべた。今、中国に出かけて、人民服で自転車にまたがるおじさんと並んで記念撮影を撮ろうとしても、そんな人はいない。ひょっとして、2050年には、中米にコーヒー摘みの風景を写真撮影しようと旅しても、コーヒー収穫バスケットは歴史博物館にしか展示されていないかもしれない。
では、どうしたらよいのか。別に私はフェアートレードを推奨している訳ではない。巨額な政府開発援助を期待している訳でもない。そのような形で消費国が誠意を示したところで、きれいに摘んでくれる保証はない。援助資金を与えようが、青年海外協力隊が井戸を掘ろうが、フェアートレードで地元に学校を作ろうが、ピッカー達に善意が届く保証はない。感謝はされるかもしれないが、それは消費者への感謝ではなく、神への感謝かもしれない。
慈善活動は資本主義に不可欠な行為。日本の福祉も財政赤字のツケを将来世代に先送りするのではなく、慈善活動を欧米並みに普及してほしい。でも、見返りを期待しないのが慈善活動。期待すれば俗になる。伊達直人(タイガーマスク)は見返りを期待しない。援助やフェアートレードの見返りに美味しいコーヒーを作れと期待するのは成り立たない。そもそも、ピッカーにきれいに摘むインセンティブは働かない。
また、日本のコーヒー関係者が生産国へ行って、「赤い実だけを摘むように指導した」という話をよく耳にするが、あれだけしか払わないくせに、よくそこまで言えるなあと感心する。ましてや、昔のように生産国政府がコーヒーを管理して価格を維持することを提唱するものでもない。それではスペシャリティーコーヒーの出現以前の状態に逆戻りで、生産者に良いコーヒーを作るインセンティブはなくなる。
指導や人道的動機も大切だが、やっぱり人を動かすのは金だ。経済的合理性だ。私は消費者がきれいに摘んだ美味しいコーヒーと、そうでないコーヒーを見分けられるようになってほしい。それが良いコーヒーに高い値段を払う経済的合理性を生む。コーヒーは深く焙煎すれば苦味が出る。それは構わないが、苦いという共通認識に甘え、コーヒーらしからぬ下品な苦味を許容する風潮がいけない。好みの問題ではあるが、奴隷制やプランテーション方式という生産様式、あるいは時代が下がって、生産国各国の価格維持政策等の管理主義から生まれた質の悪いコーヒーによって長いこと培われた、消費者のその好みに責任の一端がある。最近のスペシャリティーコーヒーの登場で人々の好みが変化しつつあることは喜ばしい。
資本主義経済では消費者は常に正しい。消費者を批判しても意味はない。しかし、農作物はきちんと育ったものを美味しいと評価するのが普通で、それがその農作物の味というものだ。コーヒーほど傷んだものがごちゃ混ぜで売られる食料品はない。スーパーに並ぶ食品は米であれイチゴであれサクランボであれ、きれいな物だけがパッケージに入れられる。コーヒーのように、傷んだ物をごちゃ混ぜのまま調理(焙煎抽出)しておいて、美味いだの不味いだの論じられる食品が他にあろうか。
ピッカーがきちんと仕事をしたコーヒーは本来は甘くてフルーティーだ。それをいい加減な生産方法の苦いコーヒーとごちゃ混ぜにするから、良い仕事をするピッカーへの感謝が湧いてこない。感謝されなければ(つまり、高い賃金を貰えなければ)、ピッカーだってきれいに摘もうという気にならない。
コーヒー一杯500円の取り分のほとんどが消費国側が取り、ピッカーの取り分が最も少ない。美味しいコーヒーの最大の貢献者、喫茶店でのオシャレで豊かな時間の最大の演出者がピッカーであるにもかかわらず、消費者がそこにあまり価値を見出していない。その矛盾に違和感を感じる。
先に日当3ドルのピッカーの取り分は、コーヒー一杯500円のうちの25銭(0.05%)程度であると述べた。仮にピッカーの取り分を20倍の日当60ドル(6000円)としても、彼らの取り分は5円。コーヒー一杯500円のたったの1%。たいした額ではない。そして、スペシャリティーコーヒーも「COE入賞の○○農園凄い!」だけではなく、「○○農園のピッカー凄い!」という消費者の声がその農園主とピッカーに届けばなお良い。
アメリカの富裕層が集まる会員制高級レストランへ私のコーヒーを卸した。こういう所こそ私のコーヒーの真価が理解されるだろうと得意満面で卸した。いきなり客からクレームがついた。「これはコーヒーではない。なぜならば、スターバックスはこういう味ではない。」山岸農園いきなり撃沈。つい30年前まではロバスタ種(いわゆるアメリカンコーヒー)しか飲まなかったアメリカ人にアラビカ種を浸透させたスタバの功績は偉大だ。劇的に消費者の意識を変革した。その意識変革があまりにも衝撃的だったからこそのスタバ信仰だろう。ここからさらに消費者の意識をスペシャリティーレベルへ変革させるのは並大抵のことではない。
しかし、美味しいコーヒーが少ないのは、生産者側にも原因が多々あるが、ひとつには、消費者が何が美味しいコーヒーかを理解していないから。当たり前のことだが、消費者が美味しいコーヒーを要求すれば、美味しいコーヒーの供給は増える。そして、コーヒープランテーションの労働者が貧しいのも、生産国にもいろいろ問題があるが、ある意味では、消費者が美味しいコーヒーを理解していないからだ。フェアートレードで人類の福祉向上を願う前に、まず美味しいコーヒーを飲もう。
それでも、安いコーヒーを飲みたければ、ブラジルの機械摘みコーヒーを飲めばよい。手摘みの何万倍も効率的だ。資本主義の成果だ。
しかし、美味しいコーヒーを飲みたいのであれば、少し考えてほしい。美味しいコーヒーを作るのに最も重要なのは丁寧に健康な完熟実だけを摘むこと。そして、将来ピッカーの数は減る。コーヒーに最も価値を与えているピッカーの過酷な労働に対し、せめて日本人に近い水準の賃金(それでも先進国ではダントツに低いが)を支払ってもバチは当たらない。さもなくば、2050年には美味しいコーヒーを飲めなくなる。