農園便り

美味しいコーヒーとは その2

先月号で、美味しいとは、口に入れて好ましいと脳が感じる個人的な経験と述べたが、コーヒー愛好家の間の苦味派と酸味派の論争は実に興味深い。一方、喫茶店や焙煎士など日本のコーヒー業界では、苦味も酸味も個人の嗜好の問題であり、どちらが正しくてどちらが間違っているということはないとする意見が大勢を占めている。

この態度は理にかなっている。自由市場経済では消費者は常に正しい。マーケッティングの基本は消費者に寄り添う事。世間に苦味派と酸味派が拮抗している以上は、両者を立て、それぞれ個人の好みの問題と整理するのが上策。

素晴らしいコーヒーとは、政府、学者、有識者、SCA、コーヒー鑑定士、有機認証団体、テレビ番組、雑誌のコーヒー特集、芸能人、著名人などの特定の団体、権威、人物が決めるものではなく、消費者がそれを好むか否かで決まる。苦味も酸味も客が好きなら、どちらも正しい。私が消費者に向かって、山岸農園のコーヒーを美味しいと感じなければ、お前は間違っていると諭しても売り上げは伸びない。それが資本主義のルールだ。

これが経済体制が違えば、事情は異なるかもしれない。仮に毛沢東主席が「山岸農園は農園主が収穫する。プランテーションとは違う。農民階級の味方。しかもプランテーションのコーヒーより旨い。アイヤー!コーヒーをアウフヘーベン(止揚)しているのことあるよ」と呟けば、紅衛兵らが毛主席語録を頭上に掲げ、「山岸珈琲(シャンアンカーフェイ)」と連呼しながら街中を行進し、農民を搾取するプランテーション農園のコーヒーを飲む人々を吊し上げ、農村へ下放するような事が起きるかもしれない。しかし、我々が生きる自由市場経済では絶対に起きない。

消費者は常に正しい。しかし、生産者の私に向かって、お前のコーヒーは酸味や甘味が出しゃばりすぎで、ガツンとした苦味がないと批判されても困る(深煎りで苦味が出るのは良いが、ミディアムでも苦いのはダメ)。だったら、私が、わざと一般のコーヒー農園同様に、つまり、コーヒーに適さない土地に品種改良したコーヒーを無理やり植えて、いい加減に育てて、木が弱っても気にせず、農薬をいっぱい使って木を痛めつけて、乱暴に収穫して、適当に精製すれば、あの世間に溢れかえる苦いコーヒーができますが、あなたは嬉しいですか、としかお答えできない。

ある年、畑の一部がカイガラムシの被害にあった。農務省のマニュアルに従い、植物油と石鹸水と混ぜて水に希釈して噴霧した。カイガラムシはかなり死んだが、葉や実が茶色に焼けた。弱った木のコーヒーはきれいに成熟しなかった。比重が軽く甘味が足りない。まろやかな甘い酸味の源であるリンゴ酸が充分に生成されない。逆に、苦味が出た。雑味もある。そのエリアのコーヒーは使い物にならなかった。病害虫の対処には苦労する。

栽培にそんな手間ひまかけずとも、苦い粗悪品でも、砂糖やミルクを入れて飲めば良いということで世界のコーヒー市場は長いことやってきた。生産国は質より量やコストを重視してきた。消費者も砂糖やミルクを入れて飲みやすいように工夫してきた。飲みやすい焙煎の仕方、飲みやすい抽出の仕方に職人たちは情熱を傾けた。そういった飲み方の工夫は多様なコーヒー文化を育んだ。苦味を積極的に楽しむ人々も現れた。それも立派な文化だ。しかし、スペシャリティーコーヒーの登場で、農家が注意深く栽培収穫すれば、コーヒー自体の酸味や甘味が美味しいことを提示する農家が増えて来た。

確かに美味しいコーヒーとは消費者が決める問題だ。でも、今度、酸味のきれいなコーヒーに出会ったら、大切に育てているんだなと思いを馳せていただきたい。その連想が脳を気持ち良くさせるかも。ねっ、おいしいでしょ。        

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2020/12/02   yamagishicoffee

「珈琲と文化」2020年秋号 コーヒーの2050年問題

雑誌「珈琲と文化」2020年秋号に掲載された拙稿です。コーヒーの2050年問題について考えてみました。

 

 美味しいコーヒーを作るには、コーヒーの木と実を健康に育てて、完熟した実のみを丁寧に摘み取ればよい。それがポテンシャルを最大に引き出す。コーヒーという農作物が本来持つ味だ。しかし、単純だけど実践はとても難しい。

健康な完熟実だけを摘むと、フルーティーでクリーンなコーヒーになる。甘味さえ感じる。逆に、いい加減に摘むと雑味が増えて苦くなる。もちろん深く焙煎すれば苦味がでる。それは良い。しかし、カッピング用の焙煎度合い(ミディアム)でも苦味が出るコーヒーは、いい加減に育て、いい加減に収穫したもの。

植え付け、栽培、収穫、乾燥、保管、精選、輸送、焙煎、抽出、そしてお会計。川上から川下まで何十もの工程があるなかで、最も重要な仕事の担い手は畑の労働者だ。彼らが美味しいコーヒーの価値の源泉だ。なのに、彼らの取り分が最も少ない。

私は農園主ではあるが、ピッカー(コーヒーを摘む労働者)でもある。コーヒーを摘みながら、他の産地のピッカーに思いを馳せる。作業の余りの辛さに、連帯感まで感じる。一説によると、世界で3000万人がコーヒーを摘んでいるらしい。彼らのおかれた惨状を考えると深く同情する。

 

最近、「コーヒーの2050年問題」なる言葉を頻繁に聞く。地球温暖化で2050年には栽培可能な耕地が50%減少してコーヒーが飲めなくなるから大変だという話。

気候変動による耕地面積の縮小は我々コーヒー農家にとっても、コーヒー愛好家にとっても由々しき問題だ。しかし、なんだか違和感を感じる。別に私は温暖化懐疑派ではない。本当に深刻な問題だ。また、温暖化問題をコーヒーという身近な日常に落とし込んで、正義を振りかざす「意識高い系」の態度が鼻に付くという訳でもない。私の違和感は「あなたは、そんな将来にまで、まだ彼らにコーヒーを摘ませる気か」という事である。

日本人でこの仕事ができる人はまずいない。日本から来た友人で3日以上、体がもった人はいない。ハワイでもきついのに途上国ではなおさらだ。不安定な季節労働。劣悪な住環境。一日数ドルの低賃金。重いバスケットを腰に付けての重労働。

こんな劣悪な環境でなければ、コーヒーが一杯100円はありえない。コーヒーピッカーだって、好きでやっている訳ではない。途上国の、さらに最貧の山間部の人々が止む無く換金作物を手掛けているだけだ。そりゃ、日本のテレビ局が取材に来れば、幸せそうに笑顔でコーヒーを摘んでみせるさ。でも、彼らだって、コーヒーなんか摘むより、エアコンの効いたコンビニで「Irashaimase~」とコーヒーを売る側になりたい。あわよくば、コンビニでコーヒーを買う側の人間になりたい。そう、彼らだって豊かになりたいのだ。

100年前(ほんの4世代前)の日本やアメリカは国民の大多数が農民だった。この100年間の経済成長は、生産性の低い農業から生産性の高い工業・サービス業へ労働力が移転して達成された。同時に農業の生産性も上がった。昔は人口の8割の農民が国民を養っていたのが、今や農業従事者は2~3%程度。それで養える。中国は改革開放後40年。この道筋の半分くらい(農民が人口の半分くらいまでに減少)、たった1~2世代で驚異的な発展を示した。

1970~80年代には、人口爆発や食糧危機が問題だと教わったが、今では状況は変わった。アフリカなど人口が増加している地域もあるが、おおむね人口増加は鈍化している。日本などは減少が大問題で、それに続くとされる国も多々ある。2050年ごろには世界の人口増加は止まるという予測もある。つまり、人手は次第に足りなくなる。

今は食糧危機という言葉も聞かない。飢餓は存在するが、分配の問題で、全体的には食糧は不足はしていない。むしろ国際貿易交渉では、食糧の余剰が問題だ。アメリカや欧州各国は食糧輸出国へと転じ、食糧市場の支配を強めている。先進国の農業は効率的で低コストなので、途上国が農業で活路を見出すことはますます難しい。

現在コーヒーを生産している途上国が経済発展をするには、農業にしがみついていても勝算は少ない。観光農園、アグロツーリズム、地元特産品での村おこしのアイデアもよいが、日本でさえ、補助金申請の道具にはなるが、生産性向上の決定打にならないものが、途上国を劇的に豊かにするとは思えない。やはり、先進国がたどったように、農業から工業・サービス業への転換が希求されよう。コーヒー生産地の山間部の農民が都市へ移住するような発展スタイルとなる。

これまでは、山奥にコーヒーを植えて、地元民に職を与えることで生活が改善できた。タイの王室の資金で、アヘン生産地帯をコーヒー産地に変えたドイトゥン地区などは、確かに素晴らしい試みだ。

コーヒー業界は我々がコーヒーを飲むとき、それが生産国の人々を助けているというストーリーを伝える。どれだけ過酷な労働を強いているかは抜きにして、美談として伝えられる。今はそれでも良かろう。しかし、そのノリの延長で、意識高い系の「コーヒーの2050年問題」は、30年後(今のピッカーの子供や孫たちの時代)も、彼らをコーヒー畑に縛り付けておくことに何の疑問を持っていないように聞こえる。

確かに、経済発展と環境保護は対立する難しい問題だ。温暖化を食い止めるために、経済発展のあり方は工夫が必要だ。でも、30年後も、我々がプラスチック容器に入った冷たいフラペチーノをストローで吸い上げる快感を味わいたいがために、彼らを雨のコーヒー畑に濡れネズミにさらし続けるとしたら、それは悲しい未来だと思う。

 

残念ながら、美味しさに最も貢献している労働者に対する報酬は最も低い。それは歴史的な植民地主義、それに続く南北格差の遺産だ。先進国と途上国の格差もそうだが、農園主(地主、つまり植民地時代の支配者の子孫)と労働者(被支配者の子孫)の格差もある。現代は、映画「愛と悲しみの果て(Out of Africa)」のコーヒー農園ほど露骨でないにしても、日本のテレビ番組で中南米のコーヒー農園の紹介が出たら注意して観ていただきたい。まず、取材班を白人の農園主一家が古いプランテーションハウスで出迎える。先祖から受け継いだ農園の歴史を語り、次に農園で慣れない手つきでコーヒーを摘んで見せる。土など触ったこともなさそうなきれいな指だ。とてもピッカーの指には見えない。その背後に映るのは実際に働く、ごつい指をしたインディオたちだ。

ここで、農園主が労働者を搾取していると断罪するつもりはない。しかし、たとえば、日本人消費者がイメージする中南米コーヒー農家はソンブレロを被ったちょび髭の白人系のおじさんだろう。しかし、その下で働くインディオの血の混じった男女にも思いを馳せてほしい。アメリカとメキシコの国境の壁をよじ登ろうとして追い返される人々だ。トランプ大統領が忌み嫌う人々。彼らこそコーヒーの価値の源泉だ。

我々が喫茶店で飲む一杯のコーヒーの値段のうち、コーヒー農家に渡るのはほんの1~3%しかないという話はコーヒー愛好家なら誰もが耳にしたことはあるはず。しかし、その1~3%というのは農園主、農協あるいは自営農に渡る金額で、農園主の下で働いている労働者へ渡る取り分はさらに桁外れに少ない。

仮に、ピッカーが一日200ポンド(約90キロ)の実を摘んで、3ドル(約300円)を稼いだとする。それを乾燥して生豆にして焙煎するとコーヒー1,200杯分だ。一杯当たり25銭(=300円/1200杯)がピッカーの懐の渡る勘定になる。仮に、喫茶店で飲む手済み完熟の高級コーヒーが一杯500円とすると、25銭/500円=0.05%がピッカーの取り分。そのコーヒーに最も価値を与えているのは「手済み完熟」の部分、サプライチェーン中、最も過酷な労働で、その商品に最大の価値を与えている仕事、美味しさの源泉に、たったの0.05%の報酬。何かが変だ。これが企業ならこんな無茶苦茶な報酬体系の会社は潰れる。

物価水準が違うとのご批判もあろうが、例えば、日本とホンジュラスの物価水準の違いを調節すると、ホンジュラスで一日3ドル稼ぐのは、日本で一日約700円を稼ぐ(時給ではなく日当)程度。いずれにしろ、彼らの取り分は少ない。

ほとんどの消費者はコーヒー農家というと農園主のことだと思っている。商社の買い付け担当も、産地に視察に行ったカフェのオーナーも農園主としか会わない。実際に働いている労働者から話を聞く人はいないだろう。だから、よくネットにある日本人の農園訪問レポートは、労働者の仕事の事よりも農園主の視点が強調される。気候や土壌(先祖からたまたま受け継いだもの)、品種、精製方法の記述ばかりだ。精製方法にしたって、水洗式、ナチュラル、セミナチュラル、パルプトナチュラル、ハニー、ブラックハニー、レッドハニー、イェローハニー、ホワイトハニー、ドライファーメンテーション、酵母菌発酵、乳酸菌発酵、Etcという単語が踊る。

確かに、ナチュラル製法や酵母菌発酵をさせると、強い特徴が出る。ちょっと珍しい。だから農園主は躍起になる。それを農園を訪問した日本人も得意になって日本語に訳す。でも、所詮、乾燥の仕方などは点数稼ぎの小手先の工夫だ。

酵母発酵などは、ワイン用の酵母を生産している会社から何種類か酵母を取り寄せて、2日、3日、4日と発酵時間を変えて、どの酵母でどの気温で何時間発酵させると良いかを探るだけのこと(畑により最適な酵母菌の種類と発酵時間は異なる)。私の場合は数種類の酵母菌を試し、シーマという酵母菌を72時間発酵させるのが最適だった。種類と時間の組み合わせで、数十通りのサンプルを試すだけの、ごく簡単な工夫だ。1年もやれば大体の勘はつかめる。農園によっては企業秘密だともったいぶるが、うちの場合はシーマの72時間。秘密にするほどの事でもない。そんな事よりも、木を健康に保ち、きれいに収穫する方が、はるかに難しいし、大きく味に影響する。けれんみのないコーヒー本来の味だ。農園主の小手先の工夫よりも、農園で働いている労働者の働きの方が、ずっと大切だ。

 

私はリバタリアン(経済的自由と社会的自由の両方を希求)的な思考が強すぎるかもしれない。私が働いたNYはそういう場所だった。世界中から人材が集まり、自分の才覚を頼りに競争させてもらえた。我々のチームでは食べ物や生活習慣に関する個人の好みや、思想や、支持する政策に関して同意や共感を得るのは全く不可能だし、組織防衛のため多少の後ろめたいことには目をつぶる感覚はない。しかし、運用成績を上げて金を儲けるという目標を全員が共有する事には一ミリの誤差もなかった。私のチームにはアメリカ人の他に日本人、インド人、パキスタン人、中国人、韓国人、メキシコ人、カナダ人、トルコ人、フランス人、ギリシア人、台湾人、パナマ人、プエルトリコ人、イラン人などがいて、その中には、ユダヤ人もカトリックもプロテスタントもイスラム教徒もヒンズー教徒も仏教徒もいた。私のボスはイタリア人で、その上のボスは女性や韓国人で、そのまたボスは黒人だった。国籍、人種、宗教、性別等の差別を排し、結果の平等よりも機会の平等を重視する場所だ。リバタリアンというと日本では自己責任論ばかりが強調されるが、機会の平等が前提なのだ。

だから、日本人に生まれただけで、コーヒーを売る側として働けば最低賃金が保証されるのに、中南米やアフリカに生まれたら、たとえ同じ程度の能力を持っていても、コーヒー畑の重労働で一日3ドル程度しか稼げない現状には不条理に感じる。日本ではフェアートレードのコーヒーを飲んで、今日も良いことをしたと自分を褒めて片が付く程度の問題としか捉えられていない。たぶん日本人も不条理は感じるが、スター・ウォーズのルーク・スカイウォーカーの故郷、2つの夕陽が美しいタトゥイーンと同じくらい遠い世界での出来事なのかもしれない。

しかし、これが日本で起きたらどうだろう。もし、私が日本で生産国並みの賃金と環境下で日本人にコーヒーを摘ませたら、えらいことになる。大勢を狭い寮に押し込め、1日10時間働かせて日当330円。しかも、夕方、持ってきたチェリーを摘み方が乱暴だと突き返し、その日の日当は払わない(美味しいコーヒーの為にはここは譲れない)。こんなことをしたら、たちまちNHKスペシャル取材班がやってきて社会問題になる。近所の病院は腰痛患者であふれかえる。「コーヒー摘んだ。日本死ね」と誰かが呟き、野党議員が飛びつく。そして週刊文春は10週連続で特集を組む。「悪魔のように黒く、地獄のように熱いコーヒー農園」、「コーヒー、ブラック農園」、「途上国は出来て、何故お前にできない。農園主逆切れ」、「グローバル経済逆流」等々が電車のつり革広告を賑わす。

自由主義の隆盛で我々の社会は前の世代と比べると格段に社会的寛容を増した。この傾向はさらに進み途上国へも拡散するだろう。将来は「#コーヒー摘み日当3ドルMe too」などと農園主や商社が槍玉にあげられるネット上の運動が起きるかもしれない。しかも、こともあろうか30年も昔の出来事にさかのぼって。

先進国では、資本主義や自由主義が国内の経済格差を生んだと懸念されるが、その格差の原因の一端は、経済のグローバル化で途上国(特に中国)の人々に仕事を奪われたという事だ。日本では相対的貧困という概念が考案されたが、それは途上国での絶対的貧困が減ったことの裏返しだ。コーヒー生産国から見れば大いに結構なことだ。中国に続けだ。先進国ではこの反発から、自国第一主義、他国排斥主義が台頭している(日本は昔から稀に見る他国排斥主義だからあまり変わりないけど)。しかし、閉鎖主義、保護主義は経済的に非効率的なので、永続するとは思えない。

ましてや、様々な分野でのIT化やブロックチェーンの登場により、国家の保護(規制)に頼らないビジネスモデルが登場している。ますます、情報と資本は国境の壁を越え、途上国への産業と雇用の移転は続くだろう。人工知能が発達し人間の能力を超える(シンギュラリティ)時代を迎え、コンピューターやロボットが人間に取って代わり、ほとんどの人類が職を失い、すべての産業と富がシリコンバレーに吸い込まれるようなことでも起きない限り。

楽観的かもしれないが、私は思う。コーヒー生産国はやがて経済発展する。それが自立的なのか、アメリカ経済や中国経済に従属する形なのかは分からない。それは30年後ではなく、もっと先かもしれないが、きっと、彼らの孫、ひ孫の時代には、貧しい山奥から都会へ出る。私のようにお金の世界に背を向けて農村に住む人は少数派だろう。あるいは在宅勤務が発展し、都会の仕事が山奥へ来るかもしれない。いずれにしろ今の賃金水準でコーヒーを摘んでくれる人はいなくなる。

ついこの前まで、中国と言えば、人民服に人民帽のおじさん達が大量に自転車で通勤する風景を思い浮かべた。今、中国に出かけて、人民服で自転車にまたがるおじさんと並んで記念撮影を撮ろうとしても、そんな人はいない。ひょっとして、2050年には、中米にコーヒー摘みの風景を写真撮影しようと旅しても、コーヒー収穫バスケットは歴史博物館にしか展示されていないかもしれない。

 

では、どうしたらよいのか。別に私はフェアートレードを推奨している訳ではない。巨額な政府開発援助を期待している訳でもない。そのような形で消費国が誠意を示したところで、きれいに摘んでくれる保証はない。援助資金を与えようが、青年海外協力隊が井戸を掘ろうが、フェアートレードで地元に学校を作ろうが、ピッカー達に善意が届く保証はない。感謝はされるかもしれないが、それは消費者への感謝ではなく、神への感謝かもしれない。

慈善活動は資本主義に不可欠な行為。日本の福祉も財政赤字のツケを将来世代に先送りするのではなく、慈善活動を欧米並みに普及してほしい。でも、見返りを期待しないのが慈善活動。期待すれば俗になる。伊達直人(タイガーマスク)は見返りを期待しない。援助やフェアートレードの見返りに美味しいコーヒーを作れと期待するのは成り立たない。そもそも、ピッカーにきれいに摘むインセンティブは働かない。

また、日本のコーヒー関係者が生産国へ行って、「赤い実だけを摘むように指導した」という話をよく耳にするが、あれだけしか払わないくせに、よくそこまで言えるなあと感心する。ましてや、昔のように生産国政府がコーヒーを管理して価格を維持することを提唱するものでもない。それではスペシャリティーコーヒーの出現以前の状態に逆戻りで、生産者に良いコーヒーを作るインセンティブはなくなる。

指導や人道的動機も大切だが、やっぱり人を動かすのは金だ。経済的合理性だ。私は消費者がきれいに摘んだ美味しいコーヒーと、そうでないコーヒーを見分けられるようになってほしい。それが良いコーヒーに高い値段を払う経済的合理性を生む。コーヒーは深く焙煎すれば苦味が出る。それは構わないが、苦いという共通認識に甘え、コーヒーらしからぬ下品な苦味を許容する風潮がいけない。好みの問題ではあるが、奴隷制やプランテーション方式という生産様式、あるいは時代が下がって、生産国各国の価格維持政策等の管理主義から生まれた質の悪いコーヒーによって長いこと培われた、消費者のその好みに責任の一端がある。最近のスペシャリティーコーヒーの登場で人々の好みが変化しつつあることは喜ばしい。

資本主義経済では消費者は常に正しい。消費者を批判しても意味はない。しかし、農作物はきちんと育ったものを美味しいと評価するのが普通で、それがその農作物の味というものだ。コーヒーほど傷んだものがごちゃ混ぜで売られる食料品はない。スーパーに並ぶ食品は米であれイチゴであれサクランボであれ、きれいな物だけがパッケージに入れられる。コーヒーのように、傷んだ物をごちゃ混ぜのまま調理(焙煎抽出)しておいて、美味いだの不味いだの論じられる食品が他にあろうか。

ピッカーがきちんと仕事をしたコーヒーは本来は甘くてフルーティーだ。それをいい加減な生産方法の苦いコーヒーとごちゃ混ぜにするから、良い仕事をするピッカーへの感謝が湧いてこない。感謝されなければ(つまり、高い賃金を貰えなければ)、ピッカーだってきれいに摘もうという気にならない。

コーヒー一杯500円の取り分のほとんどが消費国側が取り、ピッカーの取り分が最も少ない。美味しいコーヒーの最大の貢献者、喫茶店でのオシャレで豊かな時間の最大の演出者がピッカーであるにもかかわらず、消費者がそこにあまり価値を見出していない。その矛盾に違和感を感じる。

先に日当3ドルのピッカーの取り分は、コーヒー一杯500円のうちの25銭(0.05%)程度であると述べた。仮にピッカーの取り分を20倍の日当60ドル(6000円)としても、彼らの取り分は5円。コーヒー一杯500円のたったの1%。たいした額ではない。そして、スペシャリティーコーヒーも「COE入賞の○○農園凄い!」だけではなく、「○○農園のピッカー凄い!」という消費者の声がその農園主とピッカーに届けばなお良い。

 

アメリカの富裕層が集まる会員制高級レストランへ私のコーヒーを卸した。こういう所こそ私のコーヒーの真価が理解されるだろうと得意満面で卸した。いきなり客からクレームがついた。「これはコーヒーではない。なぜならば、スターバックスはこういう味ではない。」山岸農園いきなり撃沈。つい30年前まではロバスタ種(いわゆるアメリカンコーヒー)しか飲まなかったアメリカ人にアラビカ種を浸透させたスタバの功績は偉大だ。劇的に消費者の意識を変革した。その意識変革があまりにも衝撃的だったからこそのスタバ信仰だろう。ここからさらに消費者の意識をスペシャリティーレベルへ変革させるのは並大抵のことではない。

しかし、美味しいコーヒーが少ないのは、生産者側にも原因が多々あるが、ひとつには、消費者が何が美味しいコーヒーかを理解していないから。当たり前のことだが、消費者が美味しいコーヒーを要求すれば、美味しいコーヒーの供給は増える。そして、コーヒープランテーションの労働者が貧しいのも、生産国にもいろいろ問題があるが、ある意味では、消費者が美味しいコーヒーを理解していないからだ。フェアートレードで人類の福祉向上を願う前に、まず美味しいコーヒーを飲もう。

それでも、安いコーヒーを飲みたければ、ブラジルの機械摘みコーヒーを飲めばよい。手摘みの何万倍も効率的だ。資本主義の成果だ。

しかし、美味しいコーヒーを飲みたいのであれば、少し考えてほしい。美味しいコーヒーを作るのに最も重要なのは丁寧に健康な完熟実だけを摘むこと。そして、将来ピッカーの数は減る。コーヒーに最も価値を与えているピッカーの過酷な労働に対し、せめて日本人に近い水準の賃金(それでも先進国ではダントツに低いが)を支払ってもバチは当たらない。さもなくば、2050年には美味しいコーヒーを飲めなくなる。

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2020/11/27   yamagishicoffee

雨の中のコーヒー摘み

このところ連日の雨。雨の中でのコーヒー摘みは悲しい。
一昨日はすごかった。コーヒーを摘んでいると、にわかに暗くなった。するとミツバチがいなくなった。5分後には鳥もいなくなった。すると隣の畑からゴーーーという轟音が近づいてきて、パラパラ、ザー、ゴーっと、2時間で100mmの大雨。ピカッ!ゴロゴロー。
負けてたまるか!っと、70mm位までは頑張って摘んだけど、ずぶ濡れで、寒いし、手はかじかむし、あきらめて早じまい。体の芯から疲れた。
今日は久々に晴れて、快適なコーヒー摘み。でも、4時半にやめて帰宅した途端に今日もまた雨。
明日は感謝祭で休憩。

 

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2020/11/26   yamagishicoffee

美味しいとは

美味しいとは何か。これまでの人生で一番おいしかったものは牛乳とあんぱん。私の母校の都立立川高校は一年の夏に臨海教室に行く。最終日には全員で隊列を組んで遠泳をする。最初は泳げない同級生も4日間の猛特訓で上達し、泳げる同輩に囲まれ励まし合いながら完泳する。その連帯感が感動的だ。皆で声を合わせて掛け声を掛けながら何時間も泳いだので喉はカラカラ。おまけに口の中は塩水だらけ。砂浜に上がると、牛乳とあんぱんが振る舞われる。その甘いこと。牛乳が甘くて脂が濃厚。あれほど旨いものには後にも先にも出会ったことはない。

 その瞬間は遠泳を終えた達成感と疲労感に加え、塩漬けの体内への突然の甘みと乳脂肪分の侵入により、脳内は喜びに満ち溢れた。牛乳がこんなに美味しいことを知った驚きも加わり、感動を覚えた。

そんな私に対し、グルメな大人が、そんなその辺で売っているありふれた牛乳よりも、どこどこ牧場の素晴らしい環境で育てた健康な乳牛に極上の餌を与えた、無調整、無殺菌の牛乳の方がはるかに美味しいなどと言ったところで、全く意味はない。牛乳を飲んだ瞬間、私の脳内は幸福ホルモンで満たされた。美味しいとは、脳が喜ぶ個人的な経験だ。

私が思うに、苦いコーヒーの好きな人の脳内にも、似たようなことが起きている。コーヒーは一種の薬物。子供のうちは苦いコーヒーが飲めない。つまり、ホモサピエンスにとって、苦いコーヒーは美味しくない。しかし飲み続けると、カフェイン効果で覚醒し、気持ちが良くなることを脳が覚える。すると、脳は苦味と覚醒をセットで覚え、初めは不快だった苦いコーヒーなのに、やがて快感を得るようになる。人々はこの好みの変化の矛盾を「大人の味覚」とか「食文化」と整理して納得する。

美味しいとは、口内の心地よい感覚、脳が喜んでいる状態を意味する。苦いコーヒーを飲んで気持ちが良ければ、それはそれで良い。なにも、お前が気持ち良いのは脳が薬物に騙されているからだと、他人の脳内に土足で踏み込んでも意味はない。

ビールも同じ。子供の頃は、大人はどうしてあんなに苦いものを飲むのか不思議だった。親戚が集まり宴たけなわになると、ビールを一口飲まされた。あまりの苦さに嫌な顔をすると親戚中がドーっとウケた。毎回飲まされるので辟易した。たまには、大の字に仰向けになって手足をバタバタさせて暴れてやろうかとも思ったが、子供の沽券に関わるので、とりあえず嫌な顔をし続けた。こんなものは大人になっても絶対飲むまいと思ったものだ。しかし、サラリーマン生活を重ねるうちに、とりあえずの一杯が、仕事で興奮した脳を鎮めることを覚えた。こうなるとビールなしには精神の平衡を保てない。ストレスと対峙できない。いつの間にかビールは美味しい飲み物となった。今では、ビールが私の脳をだましているなどとビールの悪口を言われたら、手足をバタバタさせて暴れちゃう。

コーヒー愛好家の間で、酸味派と苦味派の論争がある。酸味派は苦味は毒の危険信号だから人類は苦味を嫌うように進化したと主張する。苦味派は酸味や酸っぱさは腐敗の危険信号だらら人類の敵と主張する。しかし、所詮は好みの問題なので、たわいもない論争と見える。

では、本当にたわいもない議論だろうか。私は酸味派である。SCA(Specialty Coffee Assocation)のカッピング基準でも、酸味を積極的に評価する反面、苦味は減点要因。来月号ではこのことをもう少し掘り下げよう(続く)。

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2020/11/02   yamagishicoffee

久々の雨

今月はほとんど雨が降らずに、コーヒーの木が弱ってきたが、久々に昨日と今日の午後は大雨。

我々はずぶ濡れで寒いので、昨日も今日も3時には作業を終了。

このずる休み感がたまらない。

明るいうちから、イタリアとアルゼンチンのワインの飲み比べ。

久々の雨でコーヒーの木たちも嬉しそうだが、私も嬉しい。

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2020/10/29   yamagishicoffee

コーヒー2050年問題 その2

美味しいコーヒーとはピッカーがきれいに収穫したもの。健康な完熟実だけを摘むと、フルーティーでクリーンなコーヒーになる。甘味さえ感じる。逆に、いい加減に摘むと雑味が増えて苦くなる。飲んだ後に口の中に苦味や渋みやえぐみが残る。つまり、苦いコーヒーは、いい加減に育て、いい加減に収穫したもの。健康なコーヒーは後味がスーっと心地よく消えていく雑味のないクリーンなコーヒーだ。大きめのマグカップのコーヒーを30分以上かけて冷めても、苦味や渋みやえぐみなどのイヤな後味が残らない。

もちろん、深く焙煎をすれば苦味が強くなる。それは構わない。複雑な香りに魅惑されるも良し。しかし、ミディアムでも苦味が出るのは良くない。

一方、先月号で述べた通り、現在は低賃金の劣悪環境でコーヒーを摘むピッカー達は、経済発展したら、今の労働条件ではコーヒーを摘んでくれないかもしれない。つまり、将来は美味しいコーヒーを飲めなくなるかもしれない。どうしよう。

ピッカーの取り分を増やさなければならない。私は経済協力やフェアートレードなどの人道的支援を提唱している訳ではない。そのような形で消費国が誠意を示したところで、きれいに摘んでくれる保証はない。援助資金を与えようが、青年海外協力隊が井戸を掘ろうが、フェアートレードで地元に学校を作ろうが、それと収穫は別だ。ひょっとして感謝はされても、それは消費者への感謝ではなく、神への感謝かもしれない。

そもそも見返りを期待しないのが慈善活動。伊達直人(タイガーマスク)は匿名だ。援助やフェアートレードの見返りに美味しいコーヒーを作れというのも成り立たない。第一、コーヒーをきれいに摘むインセンティブをピッカーに与えない。

また、日本のコーヒー関係者が生産国へ行って、「赤い実だけを摘むように指導した」という話をよく耳にするが、あれだけしか払わないくせに、よくそこまで言えるなあと感心する。ましてや、昔のように生産国政府がコーヒーを管理して価格を維持することを提唱するものでもない。それではスペシャリティーコーヒーの出現以前の状態に逆戻りで、生産者に良いコーヒーを作るインセンティブはなくなる。

指導や人道的動機も大切だが、やっぱり人を動かすのは金だ。経済的合理性だ。私は消費者がきれいに摘んだ美味しいコーヒーと、そうでないコーヒーを見分けられるようになってほしい。それが良いコーヒーに高い値段を払う経済的合理性を生む。

奴隷制やプランテーション方式、あるいは時代が下がって、生産国各国の価格維持政策等の管理主義から生まれた粗悪なコーヒーによって長いこと消費者の好みが培われた。コーヒーほど傷んだものが、ごちゃ混ぜで堂々と売られる食料品はない。普通スーパーに並ぶ食品は皆きれい。農作物はきちんと育ったものを美味しいと評価するのが普通で、それがその農作物の味というものだ。いい加減に収穫した出来損ないを口にしておいて、こういう調理法(焙煎・抽出)が良いだの悪いだの、砂糖やミルクを入れると飲みやすいだの論じられる農産物はコーヒー以外にはない。しかし、最近のスペシャリティーコーヒーの登場で良質な豆が流通して、人々の好みが変化しつつあることは喜ばしい。

ピッカーがきちんと仕事をしたコーヒーは甘くてフルーティーだ。それをいい加減な生産方法の苦いコーヒーとごちゃ混ぜにするから、良い仕事をするピッカーへの感謝が湧いてこない。感謝されなければ(正当な賃金を貰えなければ)、きれいに摘む気にならない。スペシャリティーコーヒーの世界も「COE入賞の○○農園凄い!」ではなく、「○○農園のピッカー凄い!」という消費者の声がその農園主とピッカーに届けばなお良い。

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2020/10/02   yamagishicoffee

甘いコーヒーチェリー

今年もコーヒーの果肉は、とても高い糖度となった。

コーヒーの実はオレンジ色になるとほのかに甘くなり、赤くなると甘くなる。ワインカラーですごく甘くなり、それを過ぎると過熟してすっぱくなる。https://www.youtube.com/watch?v=UJnL7JK-9Ng

 

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2020/09/30   yamagishicoffee

コーヒー2050年問題

「コーヒーの2050年問題」なる言葉を耳にする。地球温暖化で2050年には栽培可能な耕地が50%も減少してコーヒーが飲めなくなるから問題だという話。

なんだか違和感を感じる。ことわっておくが、私は温暖化懐疑派ではない。また、温暖化問題をコーヒーという身近な日常に落とし込んで、正義を振りかざす「意識高い系」の態度が鼻に付くという訳でもない。私の違和感は「あんた、そんな将来にまで、まだ彼らにコーヒーを摘ませる気か」という事である。

一説によると、世界で3000万人がコーヒーを摘んでいる。日本人でこの仕事ができる人はまずいない。不安定な季節労働。劣悪な住環境。一日数ドルの低賃金。重いバスケットを腰に付けての重労働。私の日本からの友人で3日以上、体がもった人はいない。

こんな環境でなければ、コーヒーが一杯100円はありえない。コーヒーピッカーだって、好きでやっている訳ではない。途上国の、さらに最貧の山間部の人々が止む無く換金作物を手掛けているだけだ。そりゃ、日本のテレビ局が取材に来れば、幸せそうに笑顔でコーヒーを摘んでみせるさ。でも、彼らだって、コーヒーなんか摘むより、エアコンの効いたコンビニで「Irashaimase~」とコーヒーを売る側になりたい。何倍も稼げる。あわよくば、コンビニでコーヒーを買う側の人間になりたい。豊かになりたいと思っている。

100年前(ほんの4世代前)の日本やアメリカは国民の大多数が農民だった。生産性が低い農業から生産性の高い工業・サービス業へ労働力が移転して経済成長を遂げた。農業の生産性も上がった。昔は人口の8割の農民が国民を養っていたのが、今は農民は2~3%程度。それで養える。中国は改革開放後40年。この道筋の半分くらい(農民人口が半減)、たった1~2世代で驚異的な発展を示した。

コーヒー生産国は、いずれこの発展の道筋をたどる。これまでは、山奥にコーヒーを植えて、地元民に職を与えることで生活が改善できた。コーヒー業界は我々がコーヒーを飲むとき、それが生産国の人々を助けているというストーリーを伝える。どれだけ過酷な労働を強いているかは抜きにして、美談として伝えられる。今までは素晴らしい試みだ。しかし、そのノリの延長で、「コーヒーの2050年問題」は、30年後(今のピッカーの子供や孫たちの時代)も、彼らをコーヒー畑に縛り付けておくことに何の疑問を持っていないように聞こえる。

確かに、経済発展と環境保護はしばしば対立する。温暖化を食い止めるために、経済発展のあり方は工夫が必要だ。でも、30年後も、我々がプラスチック容器に入った冷たいフラペチーノをストローで吸い上げる快感を味わいたいがために、彼らを雨のコーヒー畑に濡れネズミにさらし続けるとしたら、それは悲しい未来だと思う。

過去30年間、日本以外の世界は経済成長した。成長は続くだろう。コーヒー生産国も発展が続く。それが自立的か、米中経済に従属する形なのかは分からない。それは30年後よりも先かもしれないが、きっと、彼らの孫、ひ孫の時代には、貧しい山奥から都会へ出る。山奥に留まる人も、今の値段や労働環境では絶対にコーヒーを摘んでくれない。

安いコーヒーを飲みたければ、手摘みよりも何万倍も効率的なブラジルの機械摘みコーヒーを飲めばよい。しかし、美味しいコーヒーを飲みたければ丁寧に健康な完熟実だけを摘む必要がある。(写真の数字、左から、2が完熟で摘みごろ、0は2週間早い、5は1カ月早い、0はそれ以上早い、最後の?は過熟。)美味しさに最も貢献しているピッカーの過酷な労働に対し、もっと賃金を支払ってもバチは当たらない。さもなくば、2050年には美味しいコーヒーを飲めなくなる。

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2020/09/01   yamagishicoffee

収獲1ラウンド目終了

今シーズンの収穫1ラウンド目が終了。

脚むくむ。

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2020/08/26   yamagishicoffee

雑誌「珈琲と文化」2020年7月号 コーヒーと土壌

雑誌「珈琲と文化」2020年7月号に拙稿が掲載されたので転載します。コーヒーと土壌についてです。ご笑覧ください。

 

日本のテレビ局はハワイがお好き。頻繁にハワイ特集をする。コナコーヒーも取り上げられる。コーヒー畑で日系人のおじさんがコナのコーヒーが美味しいのは、この溶岩台地の土が秘訣と自慢するシーンは番組作りの定番だ。

コーヒーショップで働く友人が日本のテレビ局の取材を受けた。カメラに向かい、コナコーヒーが美味しい理由を並べたが、なかなかOKがでない。最後に火山灰土壌の話をしたら、ディレクターが「そうそう、それを一言で簡潔にお願いします」と、撮り直しになった。最初からそれを撮りたかったらしい。観光名所のキラウェア火山と話が繋がるし。

確かに、コーヒー産地はハワイ島コナの他にも、キリマンジャロ、ジャワ島、グアテマラなど火山の近くが多い。コーヒー関連の本にも、コーヒーは火山灰土壌で良く育つと書いてある。どうやら日本のコーヒー愛好家には常識らしい。

コーヒーに適した土壌は有機物や腐植(有機物が分解した物)が多く、ミネラル豊富、保肥性、保水性、透水性に優れ、弱酸性の土壌。火山灰土壌はこの条件を満たしている。世界の土壌を12種類に分類すると、火山灰土壌は世界中で1%以下しかない珍しい土壌。熱帯・亜熱帯の火山、南国の山奥、人里離れた秘所、異国情緒たっぷりの珍しい土壌でコーヒーは育つと想像すると、なんだか、神秘的でありがたみが増す。コーヒー本の著者もテレビのディレクターもそれを狙っているように感じる。

実は火山灰土壌の学術名はAndosol。一説には、その語源は日本語の「暗土」。ただし、暗土をアンドと呼ぶことは一般的ではなく、実は調査に関わった「安藤さんの土」という説まである。日本では古くから「黒ぼく土(くろぼくど)」と呼ばれる。おそらく、コーヒー本の著者もテレビディレクターもそんな単語は知らないかもしれないが、農家なら誰でも知っている。日本を代表する畑の土だ。日本のテレビ番組で農家のおじさんがフカフカで粘り気のある黒い土を手に取り「この畑は土が良い」と自慢する土は、コナのコーヒー農家のおじさんが手に取る土と同じ種類だ。

火山灰土壌は活火山近郊の若い土壌。火山国のコーヒー産地や日本では常に火山からの新たな噴出物が供給されるのでミネラルが多い。また腐植(動植物の死骸が分解した物)も多い。熱帯・亜熱帯の温暖で雨の多い地域では、微生物が活発で、有機物はドンドン分解され消滅するので、やせた土になりやすい。だが、火山灰土壌の粘土(アロフェン)は、有機物が完全に分解される直前の腐植を強く吸着して、それ以上の分解を防ぐ。これにより腐植が豊富となる。腐植は黒いので日本の土は黒い。ころころっとした団粒構造を持ち、保水性と透水性が高い。踏むとボクボクと音がするので黒ぼく土。沖縄や小笠原を除いて、黒ぼく土は北海道から九州まで全国にある。世界には少ないが、日本では最もありふれた土だ。

コナに視察に来た日本のカフェのオーナーが、「この火山灰土壌が良いんですよね」と、憧れの眼差しでコナの土壌を見つめる。しかし、青い鳥、いや、黒い土はすぐそばに居た。

 

もちろん日本人なら誰もが日本の土は火山灰土壌だと知っている。しかし、日本のコーヒー業界の人は、日本の火山灰土壌とコーヒー産地の火山灰土壌とが同じ種類であることを、はっきりとは認識していないのではなかろうか。市販のスペシャリティー・コーヒーに、「〇〇農園はコーヒーの栽培に適した肥沃な火山灰土壌」云々との説明を頻繁に見かける。肥沃な火山灰土壌?日本語としてなんだか変。形容矛盾だ。

火山灰土壌(黒ぼく土)は、確かにミネラルと腐植が豊富。団粒構造をなしていて、保水性や透水性に優れている。フカフカして粘り気もある。しかし、酸性で、かつ、粘土にリン酸が吸着して植物がリン酸を吸収できないので、施肥が必要な問題の多い土壌だ。決して肥沃ではない。

世界の12種類の土壌のなかで、最も肥沃なのはチェルノーゼム土壌。つまり、穀倉地帯のウクライナ、北米のプレーリー土、中国東北部の黒土、アルゼンチンのパンパ土など。穀物がどんどん育つ。土の王様だ。次いで、黄土高原の粘土集積土壌、インドのデカン高原やエチオピア高原のひび割れ粘土質土壌も肥沃。我らが火山灰土壌は色が黒く(腐植が多い証拠)て肥沃そうに見えるが、さほど肥沃とはいえない。他のコーヒー産地のブラジルやアフリカのオキシソル土壌やベトナムの強風化赤黄色土よりはましだけど。

黒ぼく土は、ずっと日本の農民を悩ませてきた。戦後になって、石灰による酸性度の改良と大量のリン酸の施肥で、ようやく肥沃となった。日本人にとって、「お代官さまー、今年はオラの畑じゃあ、菜も大根もなーんも育たねかっただあ。どーか、ご勘弁くだせー。」という時代劇の台詞は、誰もが知っている民族の記憶と言っても過言ではない。

大岡越前守の時代に青木昆陽が桜島の火山灰降りしきる薩摩でも育つサツマイモを江戸近辺の痩せた黒ぼく土に持ち込んだというのは時代劇で繰り返し使われるテーマだ。(最近は青木昆陽の功績というのは疑問視されているらしい)。逆に言えば、サツマイモぐらいしか育たない土だ。

落語に登場する長屋の八つぁん熊さんが、たな賃を滞納しても大家さんから叩き出されないのは、大家は長屋のトイレの糞尿(下肥)を江戸近郊の農家に売って収入を得ていたから。大腸菌や寄生虫などの衛生上のリスクを冒してでも、そこまでしないと野菜は育たない。そういう土だ。

昭和初期には、満州の肥沃な土壌を求めて開拓団が入植した。逆に、戦後、開拓団が引き揚げて日本へ逆入植して苦労したのが、日本の黒ぼく土。満州の肥沃な黒土と見た目は似ているのに、満州のようには作物が育たない。

テレビで農家のおじさんが黒ぼく土を自慢するのは、そんな厄介な土を懸命に世話していることの裏返し。我々日本人は、かくも土に苦労した歴史と文化を共有している。なのに、コーヒー業界の常套文句「肥沃な火山灰土壌」とは、これ如何に。農民の苦難をもうお忘れか。

火山灰土壌は数万年単位の短い期間で劣化する。ミネラルも抜け落ちる。コーヒー産地の熱帯地方では、常に新たな火山灰が提供される標高の高い所には火山灰土壌があるが、標高が下がるにつれて、さらに痩せた土壌に風化する。つまり、周囲の標高の低い痩せた土地に比べれば肥沃だから、中南米のコーヒー農家は「肥沃な火山灰土壌」と自慢したくもなるのだろう。スペイン語ならばそれほど違和感がないのかもしれないが、それをそのまま日本語に訳して使うから、奇妙に聞こえる。

確かに、コーヒーは火山灰土壌が好きだ。第一に、保水性、保肥性、透水性に優れている。コーヒーは根腐れしやすいので水はけが良い所が良い。第2に、ミネラル豊富である。一方、粘土がリン酸を吸着するのが問題点。野菜などは火山灰土壌に吸着されたリン酸を吸収する能力が低いが、樹木の根は土壌に吸着されたリン酸を溶かし出す能力が高い。第3に、コーヒーは弱酸性土壌に適している。第4に、火山灰土壌は標高の高い所に集中していて、火山灰土壌の土地はコーヒーに気候が合っている。

だが、火山灰土壌がコーヒーに最適とも思えない。他のコーヒー産地にはより肥沃な土壌の国もある。たとえ火山灰土壌でも肥料を与えないと土壌は枯れる。野生のコーヒーの木のように森の中で大木に囲まれていれば、森の落ち葉がコーヒーに十分な栄養を与えるが、商業的にコーヒーを生産するには、何らかの形で栄養を与えなければならない。怠れば栄養不足で痩せた味になる。「肥沃な火山灰土壌」と威張る中南米のおじさんは、実は心の中では「日本人さまー、今年はオラの畑の火山灰土壌では栄養が足りなくて、コーヒーは育たねかっただあ。ご勘弁くだせー。ポルファボール」と思っているかもしれない。

 

コーヒーの産地が全て火山灰土壌なわけではない。むしろ少数派。他の土壌でも、きちんと栄養管理を行い、保水性と水はけが良く、弱酸性の土壌であればコーヒーは育つ。

まず第一に、日本で人気のジャマイカのブルーマウンテン地方は石灰質土壌で火山灰土壌ではない。

次にアラビカ種の原産地といわれるエチオピア。国連食糧農業機関(FAO)の土壌マップ(http://www.fao.org/soils-portal/soil-survey/soil-maps-and-databases/faounesco-soil-map-of-the-world/en/)を見る限り、エチオピアのコーヒー産地にはイルガチェフ周辺の僅かな地域を除いて火山灰土壌はない。Jimma、 Tepi、 Sidamo、 Harrarにもアラビカ種の原産地と言われるKaffa地区にもない。大地溝帯に噴出した玄武岩台地で、確かに大昔の溶岩由来だが、火山灰土壌ではない。ひび割れ粘土質土壌や粘土集積土壌が入り組んだ肥沃な高原だ。コーヒー農家としては、そんな土で一度コーヒーを育ててみたいものだ。

隣国のイェメンにも火山灰土壌はない。加えて、カネフォラ種の原産地と推定される中央アフリカや西アフリカ一帯はコンゴ高原だろうがアンゴラだろうが、おおむね不毛のオキシソル大地だ。確かに土壌マップで結論を出すのは性急だ。私の経験では、ハワイ大学作成のハワイの土壌マップは全く信用が置けないし、FAOの土壌マップの信頼度は知らない。とはいえ、どうもコーヒーは火山灰土壌原産ではなさそうだ。

世界第2位のコーヒー生産国のベトナムは、おおむね、強風化赤黄色土。強風化との名前のとおり、風化の進んだ痩せた土壌。火山灰土壌よりもずっと厄介だ。

最大のコーヒー生産国のブラジルはオキシソル土壌が主流だ。火山灰土壌のかの字もない。ブラジルのコーヒー業界はテーラ・ロッシャ(Terra Roxa:ポルトガル語で赤土の意味)という土壌を自慢する。テーラ・ロッシャは粘土集積土壌の一種で、弱酸性の肥沃な赤土。昔のブラジル農業は施肥をせず畑を使い捨てにしながら奥地へ開拓を進めた。テーラ・ロッシャでは施肥をせず40年もコーヒーが採れたというから、火山灰土壌よりも肥沃だ。しかし、現在、彼らがテーラ・ロッシャという単語を使う場合、赤土という程度の意味で、必ずしも分類学上の土壌の種類を指してはいないようだ。かつては、点在するテーラ・ロッシャでコーヒーが栽培されたが、霜の害を避けるために、生産地は、より北のミナスジェライス州などのオキシソル土壌地帯へ移動した。このことから、ブラジルでテーラ・ロッシャと言う時、昔の栽培地の粘土集積土壌の肥沃な赤土と、新たな栽培地のオキシソルの不毛な赤土が混乱して使用される。つまり、真っ赤なウソだ。

オキシソルは同じ赤土でも、性質は全く異なる。酸性で栄養分が乏しく不毛の大地。長い年月で風化が進み、栄養分が失われた末に、アルミニウムと鉄さび粘土だけが残った土壌で、それが化石化したものはアルミの原料のボーキサイトだ。

オキシソル大地が広がるセラード地域は、ブラジル中西部地帯に広がる灌木林地帯で日本の国土面積の5.5倍もある。かつては、農業に不向きで最貧地域だったが、1970~80年代に、ブラジル政府は、大量の石灰とリン酸を投入した。すると、オキシソルの持つ良好な排水性と通気性が功を奏して、肥沃な土壌に変貌した。そして、大豆・トウモロコシ・牧草地などの大農業生産地帯が生まれた(セラードの奇跡と呼ばれる)。そのセラードの南端に、品種改良した平原でも育つコーヒーを植えた。世界最大のコーヒー生産地である。なお、コーヒー業界でコーヒー生産地として呼称されるセラード地区は、ここでいうセラードのごく一部で、スルデミナスなど他の生産地も広大なセラードに含まれる。

セラードの奇跡には外資も寄与した。資源外交を重視する田中角栄首相のブラジル訪問や渡邊美智雄氏の尽力で、日本もセラード開発を援助することになった。1974年に国際協力事業団 (JICA) が発足して、日伯セラード農業開発協力が進められた。喫茶店でブラジルがベースのブレンドを注文するたびに、ここに投入された大量の石灰とリン酸肥料と有機物(つまり、多額の援助資金)を飲んでいることになる。今でこそ、食糧が余ってしょうがないことが国際貿易・政治の課題だが、1970~80年代には、世界の食糧危機が叫ばれた。セラードの奇跡は食糧危機を解消する偉業だった。

ただし、不毛ゆえに、セラードには希少で多様な生態系が存在する。開発はその草原・森林の生態系や原住民の生活様式を破壊したとの批判は広く知られるところである。

 

ちなみに、黒ぼく土はコーヒーに適しているが、残念ながら、日本はコーヒー栽培には向かない。コーヒーは霜で即死する。100年に一度でも霜が降りる所はリスクが高い。霜柱が立ちやすいのは火山灰土壌の特徴だ。さらに、気温が23度を越えると光合成が阻害される。コーヒー産地の気温は27度を越えない。しかも、昼夜の寒暖差が必要。だから、コーヒー産地は熱帯・亜熱帯の標高の高い場所にある。また、コーヒーは根が浅いので強風に弱い。台風の通り道にコーヒー産地はない。

202008 lava map.jpg

さて、ホノルルがあるオアフ島とコナのあるハワイ島では、土の色が違う。オアフ島は赤土だが、ハワイ島は黒土。ハワイ島は溶岩が噴き出すホットスポットの上にある活火山の島。ハワイ諸島は太平洋プレートに乗って、西へ移動しているので、マウイ、オアフ、カウアイと西に行くほど古い。土壌もその順に古い。若いハワイ島には黒い火山灰土壌が豊富だが、オアフ島やカウアイ島は既にミネラル分は流出して火山灰土壌は消え、セラードと同じオキシソルの赤土に劣化している。ハワイ島は数十万年、オアフ島は3~4百万年、一番古いカウアイ島は約5百万年を経ているが、数億年は経ているアフリカ大陸やブラジルの土壌に比べれば、はるかに若い。それでも、火山灰土壌は風化し消失する。火山灰土壌の命は儚い。ハワイ島コナはフアラライ山とマウナロア山の山麓に標高200m~800mの地域に縦3km、横35kmの帯状のコーヒー産地(コーヒーベルト)が広がる。火山から流出した溶岩の上に粘土と腐植が溜まった火山灰土壌。この細長いコーヒーベルト地帯では、畑によって土壌は微妙に違う。

溶岩は火口から10mや100mの幅の溶岩流になって斜面を下へ流れる。コナの溶岩流は一番新しいのが220年前で、古いのは1万5千年前。異なった年代の溶岩が帯状に重なっている。図では、色が濃いほど年代が古い。丁度バーコードの様な模様で、村を水平方向へ移動するたびに土壌の年代が異なる。

火山灰土壌は新しいと未熟である。図の白い部分は500年以内の溶岩流の跡でコーヒーは育たない。時が経つにつれ溶岩の上に、粘土(いったん水に溶けた溶岩が結晶化した物)と腐植(動植物の遺体が分解した物)が堆積して火山灰土壌が成熟する。しかし、古すぎたり雨が多すぎると栄養分は流出してしまう。よって、コナは畑によって土壌の質が微妙に異なる。あるいは同じ畑の中でも異なる場合がある。ワインのブドウ畑では道を挟んで隣同士の畑でもワインの質に差がでるので、テロワールとかマイクロクライメットという単語が用いられる。スペシャルティーコーヒー業界もワインを真似して好んで用いる。

同じコナでも標高によって雨量や気温や日照量が違うので、コーヒーの質に差が出る。それに加え、同じ標高でも横に移動すると目まぐるしく土壌の年代が変化するので、やはりコーヒーに微妙な差が出る。おまけに、土壌中にコーヒーの根の大敵である線虫の多い地域と少ない地域があるので、もうごちゃごちゃだ。

確かに地域で差はある。カッピング競技会の審査をしていて感じることもある。しかし、ここまで土壌の話をさんざんしておきながらなんだが、コーヒーは施肥さえすれば土壌の違いよりも、気温、湿度、雨量などの気候が栽培に適しているか否かの方が重要。さらに、もっと大切なのは、コーヒーを健康に育て、きれいに収穫するか否か。桁違いに重要だ。大きくコーヒーの香味に差が出る。それに比べれば、コナの土壌の差など微々たるものである。

ワインは果実の熟度が揃っているので10日程度で収穫を終える。つまり、収穫がワインの味に与える影響は小さい。その分、畑の違いが強調される。だからテロワールだ。しかし、コーヒーはコナだと収穫は5カ月以上に渡る。うちの農園では昨年は3週間ごとに畑を一周して全部で9周した。そのたびにきれいに完熟した実だけを摘まなければならない。未熟もダメ、過熟もダメ。収穫の重要度は高い。クリーンカップ至上主義を掲げ、きれいな収穫を最重視する私は、テロワールよりも人、きれいに収穫するピッカーの方が重要に思える。だって、他の産地ではあの不毛の赤土のオキシソル土壌や強風化赤黄土でも立派なコーヒーを生産する農家はあるんだから。

 

どんな作物にせよ、農家が土壌の種類を自慢したら、話半分に聞いておいた方が良い。実は、農家だって、土の種類ではなく、自分が土をどれだけ手入れしているかを自慢したいのだ。それを抜きに、ことさら土の種類だけを自慢する人がいたらば、それは怪しい。そもそも、芋や大根や人参など地中にできる物を除いて、スーパーで火山灰土壌を売りにした野菜や果物など見たことがない。土なしの水耕栽培を売りにする野菜はあっても、○○土壌だから美味しいと、まるで常識のように宣伝される農産物はコーヒー以外にない。植物はそんなに単純ではない。生産者としては、日本のコーヒー業界の「火山灰土壌」の常套文句は本当に不思議だ。土壌の種類が何であれ、適切な物理性(保水性、保肥力、透水性)を整え、適切な酸性度(pH)を保ち、充分な有機物と栄養と水を与えれば、コーヒーは育つ。その上、有機物を増やして土壌中の菌類とバクテリアを元気にすれば、彼らが多くの仕事をしてくれる。火山灰土壌はその多くが整っている。その他の痩せた土壌だと、農業に化学的な要素が増える。追加的な石灰(酸性度の調整)、栄養分、微量栄養素の管理など化学的な知見、素材を投入する必要性が増す。

土壌には、コーヒーの木が必要とする窒素・リン・カリウムなどの主要栄養分の他にもカルシウム、マグネシウム、鉄、マンガン、銅、亜鉛、ホウ酸などの微量栄養素量が適切な量でバランスよく存在しなければならない。一つでも不足すると成長が阻害されるし、過剰でも障害が起きる。

コーヒーの最適pH値は5.5~6.0と弱酸性。植物はそれぞれが好む最適なpH値から大きく酸性、あるいはアルカリ性に傾くと、たとえ、充分な栄養素が存在していても、根が栄養素を吸収できなくなる。だから、酸性度の管理も必要。

加えて、土壌中の菌類やバクテリアを増やして落ち葉などの表土の有機物がコーヒーの根に吸収されやすい形に変えられる土壌環境を作ることが大切だ。逆に、線虫などのコーヒーに害を与える生物が増えないことが望ましい。

枝葉を見れば栄養状態の大体の見当はつくが、栄養成分検査は役に立つ。畑の土を数ヶ所から採取し、ハワイ大学の研究所のコナ出張所へ持っていく。研究所が土の中の栄養成分を計測して、コーヒー畑に適した成分にする為の改良策を提示してくれる。そのほかに葉の養分検査で、不足している栄養素を割り出してくれる。便利なサービスだ。

コーヒーが実をつけるには大量の窒素とカリウムが必要。毎年のシーズン初期(開花時)に検査し、窒素とカリウムの残存量を把握する。それに基づき、年に何回、どれくらいの量の肥料を投入するかの計画を立てる。うちは魚の切れ端を炭化させた肥料を主に使うので、撒くたびに畑が魚臭くなるが、これは我慢。

そうやって栄養管理をしているが、うちのコーヒーの木は微量栄養素のマンガンが不足しがち。マンガンは光合成に必要。土壌中にはあるが、上手く吸収できない。実はそれを解決するためにここ数年、土壌について調べたのが本稿執筆の契機となった。結局、ハワイ大学の研究員がうちの畑で色々実験もしたが、ここの土壌中のマンガンの挙動が良く分らないので、マンガンを葉面散布することにした。反則みたいで悔しいが、土づくりが目的ではなく、美味しいコーヒーを作るのが目的だから仕方がない。

 

さて、ハワイ大学の土壌検査のマニュアルには1カップの土を提出せよと書いてある。計量カップは日本とアメリカではサイズが異なる。日本では酒と米に180cc(一合)を使うこともあるが、おおむね200ccが標準だろう。一方、アメリカでは1カップは240cc (0.5パイント)と連邦法で定められている。その証拠に、アメリカで買う日本製のカレーの箱には、調理法が日本語と英語で併記され、水は日本語では6カップ、英語では5cupsとある。ともに1,200ccだ。

ここはアメリカ、240ccの土を提出するのが筋。だが、私の妻は日本とカナダのハーフで、カナダでは1カップは250cc。敬意を表し、「少し多めに250ccを提出するから」と妻に見せた。すると、「アメリカ人にとって1カップといったら、普通マグカップ1杯でしょう」との答えが返ってきた。それじゃ倍じゃないか。ここで大激論となった。

「だって、コーヒーを一杯注文すると、マグカップになみなみと注ぐでしょ。」

「じゃー、料理の本に1カップとあったら、アメリカ人はマグカップを使うのか?」

「普通のアメリカ人は料理をしないから、そんな細かい決まりは誰も知らないわよ。」

「研究所に提出するんだぞ。科学者だぞ。そんないい加減じゃ科学は成り立たないぞ。」

「アメリカは何でも大きいの。マグカップでいいじゃない。」

「連邦法の規定だぞ。お前は弁護士のくせに、連邦法を無視していいのか?」

意地っ張りな私は250cc分を袋に入れて、車で30分先の研究所へ行った。土を提出すると、受付の女性は困り顔。こんな少量を持ち込んだ人は初めてだという。彼女はマニュアルを持ち出してきた。そして、キッパリと「土のサンプルは1カップ必要です。これでは足りません」との返事が来た。1カップというと、どれくらい必要なのかを問うと、机の上のすっかり冷めたコーヒーの入った大きなマグカップを指差した。哀れかな連邦法。

往復1時間。マグカップ分の土500ccを集めて、再提出した。

2020年6月 山岸秀彰

 

(本稿執筆に際しては、世界の土壌研究の専門家の森林総合研究所の藤井一至主任研究員から数多くの助言を頂いた。また、同氏の著作「土 地球最後のナゾ」(光文社新書)も参考にした。感謝いたします。)

 

 

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2020/08/16   yamagishicoffee