コーヒーの収穫も終盤。
今日はお礼肥えをした。消耗した樹勢を回復し春の開花に向けて栄養を蓄えるためにこの時期に行う。
ところが、この時期コナは乾期。雨が少ない。施肥のタイミングを計っていたところ、今日は朝から雨が降る雰囲気満々。収穫は諦めて、午前中に慌てて肥料を撒いていたら雨が降り始め、肥料が地面に吸収されて任務完了。満足満足。
午後は休憩。ビールを飲みながら、ゴルフのタイガーウッズの復帰戦をテレビで観戦したら、松山英樹選手が優勝。なんて素晴らしい一日。
どうしてコーヒーはこんなに安いのだろうか。朝起きてボーとした頭を覚ますためにコーヒーを買う。出勤前にコンビニに立ち寄り100円。会社で客のわがまま放題に耳を傾けるには頭がすっきりしていないとだめ。どうしても朝の100円は欠かせない。
朝の100円のおかげで、わがままな客を顧慮するのみならず、無茶苦茶な上司を忖度し、訳のわからん部下を斟酌しながら、業務を勘考することができる。カフェインを注入しながら、1日中こんなことを繰り返すと、もう頭がパンパン。交感神経がビンビン活動して、帰っても寝られない。だから、朝と同じようなボーとした頭の状態に戻すために、どうしても帰りがけにビールをとりあえず一杯。600円。なかなか一杯ではボーとできないので、どうしたって2~3杯は飲んでしまう。すぐに2000円くらいになる。
顧慮と忖度と斟酌と勘考を繰り返すサラリーマンにとっては、コーヒーもビールも日々を無事にやり過ごすための道具、つまり、交感神経と副交感神経のスイッチを操作する道具なのに、どうして頭のスイッチを入れるのと切るのではこんなに値段が違うのだろうか。
一方は、南米の山奥で人が日の出から日暮れまで一粒ずつ手で摘んで、ロバに載せて、山を降りて、トラックに積んで、皮むきして、乾燥して、精製して、港まで運んで、船に載せて、大西洋を北上して、パナマ運河を通って、太平洋を端から端まで横断して、通関して、卸して、焙煎して、配達して、抽出して、たったの100円。しかも、味だって100円の割にはかなりお得。凄いでしょう?
もう一方は、ユーミンの曲「中央フリーウェイ」によると、中央道を八王子方面へ向けて走ると調布の先で「右に見える競馬場、左がビール工場♪」。あんなにそばから来るのにどうして6倍も20倍も高いんだろう。
そもそも、コーヒーはそんなに安くないとだめなのか。スイッチを入れる機能のほうが切る機能よりも、サラリーマン生活上よっぽど重要だと思うのだが。やはり、コーヒーは生産過程のどこかで手を抜いている。そして、不当に搾取されている人がいる。
コーヒーの最大の生産国はブラジル。コーヒーという植物は、そもそも森の中や山の斜面に植えて手で収穫するものだったが、ブラジルでは品種改良により大平原でも育つコーヒーを植えて機械で収穫する。まったくゲームが変わった。人間が手で摘むのとは違って、暴力的に効率が良い。何百倍も早く収穫できる。機械だと完熟も未熟も過熟も一緒に収穫するので、完熟実だけを手摘みするのには品質では敵わないが、生産コストは圧倒的に安い。味にうるさいことさえ言わなければ、圧倒的な競争力だ。我々の信奉する資本主義では、革命的に効率の良い生産方法を取り入れた者に資本と売り上げが集まり、そうでない者は取り残される。それが資本主義文明の進歩の原動力だ。
それに対抗するために手摘みの産地は収穫作業をする労働者への賃金を下げる。一日働いて300円程度の賃金がまかり通っている。これでは丁寧に摘む意欲もわかない。
もうひとつの対抗策は品質を高め値段を上げることだ。きれいに収穫して美味しいものを作る。カフェインの効果で顧慮と忖度と斟酌と勘考さえできれば良いというのではなく、コーヒー自体が美味しいという新たな価値の創造だ。あとは消費国側でコーヒーの品質に対して値段を払う文化が育ってほしい。100円コーヒーは資本主義の勝利で素晴らしいが、良質のコーヒーに価値を認め、それに見合った対価を払う文化も資本主義の産物だ。ワインにはそういう文化がある。
ビールに600円とか2000円も払うんだったら、一杯2000円のコーヒーがあってもいいじゃん。スイッチ入るよ。
古くからの友人が仕事を辞めたと聞き、コーヒー摘みを手伝いに来てもらった。というか、ほとんど騙し討ち。航空券を送り付けて、「ハワイに遊びに来ないか」と、うまいこと誘って、来てもらったところを連日のコーヒー摘みに付き合わせている。
ずいぶん昔、彼が青年海外協力隊としてケニアに赴任していた場所を訪ねた。赤道直下だが高地で涼しい。ケニア山のふもとの村で、電気も水道もない。
毎日ギゼリ(トウモロコシをゆでたもの)を食べた。村人の家を訪問した際に、まれに御馳走のあずかる。まず、自分で庭の鶏を追いかけまわし、捕まえて首を落として毛をむしり煮込んだ骨と皮だけの鶏肉。貴重な鶏をおとすのだから最大級の歓待だ。
その村ではコーヒーを育てていた。それが私がコーヒーの樹を見た最初だった。まさか、何十年も後に自分がコーヒー農家になるとは想像もしていなかった。
ケニアはコーヒーの産地だが、旧イギリス領なので、コーヒーを飲まない。朝はチャイ(砂糖ミルクたっぷりの紅茶)。その村のコーヒーは味わうことはなかった。
彼が10年ほど前にその村を訪ねたところ、コーヒーの樹はなくなっていたそうだ。栽培が大変な割に儲からないから。バナナに植え替えられていた。今でも電気水道はないらしい。でもハクナマタタ。
今年も伊勢丹新宿店本館6階催事場でコーヒーの催事があます。
12のコーヒーショップが出展し、その中のキャピタルコーヒーさんが私共のコーヒーを取り上げます。
残念ながら、今年は収穫が忙しくて期間中に日本へは行けませんが、お時間のある方は、お越しいただけると幸いです。
11月9日(水)~14日(月) <最終日6時終了>
WORLD COMPASS 世界のライフスタイル
My Cup of Favor~コーヒーと物語り~
http://www.isetanguide.com/20161109/worldcompass/mycup/04.html
今年のノーベル経済学賞にMITのベント・ホルムストロム教授が選ばれた。私のイェール大留学時代の恩師だ。めでたしめでたし。当時イェール大学にはPrincipal-Agent理論の研究者が集まり、彼もその中心的人物だった。
経済主体をPrincipal(依頼人)とAgent(代理人)に分けて考えると、代理人は依頼人に雇われたにもかかわらず、依頼人の利益よりも自らの利益を優先することがある。例として、経営者と労働者、株主と経営者、企業と委託先、政治家と官僚、国民と政治家など、様々なケースで代理人が依頼人の利益を犠牲にする行動をとる問題が発生する。代理人が依頼人の利益に沿って行動するような仕組みを考えるのがこの分野のテーマだ。
コーヒー農園主がピッカー(コーヒー収穫する人)を雇う際にも悩ましい問題がある。私は良いコーヒーを作るのが目標。そのためにはコーヒーをきれいに摘むのが重要。一方、ピッカーの多くは米本土からこの時期3か月間のみコナに渡ってくる季節労働者で、たくさん摘んで稼ぐのが目的。丁寧に摘んでなんかはいられない。目標が違う。
年初に、あるピッカーのグループのリーダーが何故うちの畑は害虫の被害がコナで一番少ないのか尋ねて来た。丁寧に摘むことが健康な畑の秘訣と説明すると、ぜひこの畑で摘みたいと言う。品質を重視する彼女の発言が気に入り彼女のグループを雇った。シーズンが始まると彼女はアメリカ本土からの季節労働者を集めて連れて来た。
シーズンの最初は赤く熟した実が少ないので早く摘めない。そこで、時間給で払った。すると私が一日100ポンド程度摘むのに、彼女らは40ポンドぐらいしか摘まない。お喋りしながらのんびりと楽しくという感じだ。これはいかん。
次に摘んだ重さで支払った。ただし、他の農園の5割増しの賃金を出すので私と同じように丁寧に摘むよう頼んだ。ところが、日に日に人数が減り、誰も来なくなった。他の農園では丁寧さは要求されない。うちの農園の倍の量を摘めて、その方が得というのが理由。うちの農園が品質重視なのはわかるが、生活がかかっているので無理と言われた。品質を顧みない心ないピッカーとの評価はできない。彼女らだって生きていくのに必死だ。
他のグループを雇おうにも既に各農園が囲い込んでいるので今さら無理。仕方なく、私と妻の2人で夜明けから日暮れまで摘み続ける毎日だ。泣きながらの作業となった。
Principal-Agent理論では、農園主はこういう問題を解決するような雇用・契約形態を考えなければならない。もちろん私だって考えてはいる。実はこの2年間、メキシコ人のJ氏を雇った。彼をパートナーとして扱い、年間の利益を分配する約束をしていた。(実際には創業以来8年間赤字続きなので、彼の働きに応じてボーナスを支払った。)
さらに、彼の為に2ヘクタールのノニ畑を買った。床面積200㎡の立派な家付きだ。ノニは夏、コーヒーは冬が忙しい。良い組み合わせだ。彼には年間を通しての雇用を保障し、タダで家を提供し、その上、利益を分配する約束もした。生活は保障したうえで、質の良いものを作れば彼の収入も増える仕組みだ。ここに彼と私の利害は一致した。ホルムストロム教授に褒めてもらえそうなエージェンシー問題の解決方法だ。
ところが、J氏の兄が亡くなり、彼はメキシコへ帰国してしまった。兄の経営する先祖伝来の牧場を引き継ぐらしい。そこで、急遽、例のグループを雇って、そういう顛末になった。ここまで尽くしたのに彼は帰ってこない。問題解決になっていない。ノーベル賞の理論じゃないのか?まさか答えは風に吹かれているというのが今年のオチか?
ああ、新しいパートナーを探さなければ。そんなことより、とりあえずコーヒー摘まなきゃ。苦し~!
5時起床 朝食コーヒー他
6時 コーヒー摘み開始。
11時半 昼食15分コーヒー他
5時半 コーヒー摘み終了 トラックへ積み込み精製所へ運ぶ
7時 夕食
8時 入浴 コーヒー入り入浴剤
8時半 就寝
朝から晩までコーヒー漬けじゃ!
6月にホノルルへ行き、Coffee Quality Instituteが主催する3日間の研修と、それに続く3日間に渡る22の試験を受けて、妻と揃ってLicensed Q Graderの資格を取った。
コーヒーのカッピング(官能評価)の技術を測るもので、合格するとSCAA(Specialty Coffee Association of America)の評価基準・手順に従って、コーヒーに点数をつける資格を持つ。
SCAAのカッピング基準はコーヒーの香味の多くの要素を客観的に評価することにより、コーヒーに関する共通の言語を発展させ、スペシャリティーコーヒーの普及に貢献した。また、カッピングは短時間に多くのコーヒーを評価でき、流通段階に携わる人々には便利な手法だ。
流通業者ではない私には興味深い経験となった。私はコーヒーを飲む際に生産者あるいは消費者としての観点から嗜む。カッピング形式では飲まないし、評価基準も違う。
私の好きなコーヒーは雑味のないコーヒー。マグカップ一杯を30分程かけてゆっくり飲んでも、苦みや渋みやえぐみを感じないクリーンな余韻の残るコーヒー。口に残った雑味を消すために何かを口にせずにはいられない、あるいは歯を磨きたくなるようなコーヒーは感心しない。
しかし、この感覚はカッピングでは上手く感知できない。複数のコーヒーを次々と口に吸いこんで数秒で吐き出すことを繰り返すカッピングでは、一杯のコーヒーが時間をかけて口の中に雑味を累積して醸し出す不快な余韻を捕らえられない。たとえ私がカッピングをして、華やかな酸味と甘みが気に入り高い点数を付けても、それを、翌朝30分かけて飲むと、口の中に渋みが溜まってガッカリすることが多い。私が好きなコーヒーはカッピングで高得点のコーヒーとは違う。
私の評価法は全くの自己流だが、あながち的外れとは思えない。第一に世間にはコーヒーを飲めない人が多い。また、多くの人がコーヒーに砂糖やミルクを入れる。それは口の中に溜まっていく雑味が嫌だからだ。決してSCAAの評価項目、例えば、この酸味が気に入らないから、あるいはこのコクが気に入らないから砂糖を入れるという訳ではない。それほど、苦みや渋みやえぐみは人々をコーヒーから遠ざける重要な項目だ。
第二にそれが農家の努力を反映していると考えるからだ。時間をかけて飲んでも雑味を感じず良い余韻が続くコーヒーを作るためには、健康に完熟した実だけをきれいに摘まなければならない。そして、それは消費国の人が想像するよりもはるかに難しい。気が遠くなるほど難しい。私は自分でコーヒーを摘むが、農園主が自ら摘む農園はほとんど存在しない。低賃金の季節労働者が収穫の担い手だ。そして、季節労働者を雇って、きれいに収穫することは難しい。最高のコーヒーを作りたいと願う農園主はいても、最高のコーヒーを作りたいと思いながらコーヒーを摘む季節労働者はいない。だから、私好みの良い余韻が残るコーヒーに出会うことは稀だ。たとえ、COE(Cup of Excellence)1位のコーヒーでも感心しないものは多い。
私は農園での風景を想像しながら飲む。「これは収穫の仕方があまいな」とか「乾燥時に発酵しているな」とか、具体的な作業風景が浮かんでくる。そして、良い余韻が長時間残る雑味のないコーヒーに出会うと、この農園のピッカー達もなかなかやるなと彼らの努力に共感する。そんな飲み方をするのは私と妻ぐらいで、当然、世間は違う。ましてやQ GraderたちはSCAAの基準に則って評価する。私とは見方が違うので話がすれ違う。したがって、流通業者に普及したQ Graderの資格を取ることは私には意義のある体験だった。
今回の試験の受講者は7人。少人数で雰囲気の良いチームだった。加えて、前の週サンフランシスコで不合格だった人が追試を受けに来た。ハワイ州で試験が行われるのは初めてなので、ハワイでこの資格を持つ者はまだ僅かだ。オーストラリアやニュージーランドからも参加者があった。それらの国では受験までに1年以上のウェイティングリストがあるらしい。今回、ハワイでの開催を機に、休暇を兼ねて飛んできたそうだ。日本での試験は大人数だと聞く。英語に抵抗がなければ、少人数のハワイで受験したほうが断然有利だ。
ど素人の私にとって6日間のコースはとても集中力を要するストレスフルで苦しい体験だった。一度つまづくと、ストレスから雪だるま式に転げ落ちていく感じがした。そんななか、教官のJodi Wieserさんはとても親切で、我々がリラックスできるよう工夫してくれた。チーム内の協力的な雰囲気作りもしてくれた。解答用紙を提出したときに、合格だと明るく”All right!”言いながら解答用紙に大きくPass!と書いてくれる。ところが、不合格だとpuppy eyes(子犬の目)で悲しそうに見つめられる。あの優しい無垢なpuppy eyesが出たらアウトだと皆が恐れた。
テストの詳細については私のホームページに記したので、本稿ではカッピングの実習試験に関して記す。カッピングは通常は中南米の水洗式マイルド、アジア、アフリカ、非水洗式(ナチュラル)の4セッションが行われる。しかし、今回は生産地ハワイでの開催だったので、授業ではハワイも加え、5セッションが行われた。試験では、受験者の希望も勘案し、中南米を除き、アジア、アフリカ、ナチュラル、ハワイの4セッションが行われた。
最初の3日間はカッピングの実習を通じ、SCAAのカッピング・プロトコールを理解し、カッピングフォームを正しく記入できるよう学ぶ。各セッションごとにカッピングの後に、教官と生徒たちの間で、それぞれのコーヒーに関しての評価、意見を交換する。これを通じて、自分のスコアーが教官や他の生徒とのブレがなくなるようにする。つまり、SCAAの評価基準に自分の評価基準をすり合わせていくトレーニングである。
私は実務としてのカッピング経験がないので、カッピング実習試験が最も不安だった。実際に初日の中南米水洗式マイルドの練習セッションで、大いなるショックを受け前途多難と感じた。教官が81.5点をつけたコーヒーに私は75.5と低い点を付けた。いくら何でも差が大きすぎる。私にはそのコーヒーを口に入れた瞬間、かすかだが発酵臭を感じた。
コーヒーの収穫は最長でも3週間以内に畑を一周して戻ってこないと実は過熟する。通常、コーヒーの産地は収穫期には雨が降らない。ところが、コナは収穫時期の乾期にも雨が数日降り続けることがある。収獲中に雨が続くとコーヒーの実は早く過熟するので、3週間のペースよりもペースを上げる必要がある。しかし、どうしても雨だとペースが落ちる。第一、中南米からの出稼ぎ労働者たちは雨の中では摘まない。それが彼らのしきたりだ。ましてやアメリカ人が摘むわけがない(そもそもアメリカ人は収穫作業をしない)。日本のJA全中(全国農業組合中央会)のHPを見ても、雨が降ったら農家の仕事はお休みと書いてある。
しかし、山岸農園では雨でも歯を食いしばって摘む。もし休んでペースが落ちると過熟した実が発酵を始めてワイン醸造所のような臭いがしてくる。それだけは避けたい。最悪の場合カビが生える。カビ臭のするカップは強烈で最悪だ。そうならないように、ずぶ濡れになって体が芯まで冷え切って震えが止まらなくなっても、寒さで指がかじかんでうまく動かなくなっても、コーヒーを摘み続けるのだ。発酵しないよう戦い続けているのだ。だから、コーヒーを飲んだ際に発酵臭が僅かでもすると、私は許せない。それをワイニーなどと呼び、ポジティブに評価することはできない。おそらく、ガタガタ震えながらコーヒーを摘んだ経験のない人は、否定的には感じないかもしれない。むしろフルーティーに感じる人も多いだろう。
そもそも、発酵した過熟豆は水に浮くので、ウェットミルできちんとフローターを取り除けば、ほとんどを除去できる。しかし、山岸農園ではウェットミルが最後の頼みの綱となるのは嫌なので、収穫の段階から過熟豆が混入しないように努力している。ましてや、コーヒーカップの中までそれが届くということは、収穫をすり抜け、ウェットミルもすり抜けてきたということだ。やはり、私には受け入れがたい。生産上の瑕疵を、ワイニーとかフルーティーとかの言葉で飾って物珍しさを逆手にとる米国式マーケティング戦略には加担できない。
私が75.5点を付けたコーヒーも私が雨の中で泣きながら摘んでいる時の臭いがした。(実際には雨の時はあまり臭いを感じない。雨の止んだ後に感じる)。この類のコーヒーは、日本のスペシャリティーコーヒーの店でもよく出てくる曲者だ。COEも取っているフルーティーでワイニーな逸品ですと店主が喜んで出してくるあの曲者だ。
その日、私は教官に噛み付いた。山岸農園がこんなコーヒーを作ったら、私はコーヒー作りを辞めるとまで主張した。しかし、教官はこれは好ましいコーヒーで発酵臭はしないと主張し、議論は全くかみ合わなかった。初日から私はクラスの問題児となった。
SCAAによると収穫時や収穫後の精製の過程で発酵して酢酸が生成されても、酢酸はごく微量であれば、好ましい酸味を与えるといわれる。私は過度に気にしすぎなのかもしれない。あるいは、私が発酵臭と感じ、教官が好ましいとしている香りは、実際は発酵臭でも何でもない他の物かもしれない。ただ、私はその臭いが少しでもすると雨を思い出して不快になる。
その日は暗澹たる気分でホテルに帰ったが、かえって、これで吹っ切れた。この一週間に限っては、生産者としてのこだわり、良心、美学を捨てる覚悟ができた。そもそも、それが目的でこのコースに参加しているのだ。あのコーヒーをフルーティーでワイニーと呼ぶ覚悟ができた瞬間だった。
その覚悟ができると、2日目以降は、徐々に教官の評価にすり寄ることができるようになった。自分のカッピングの点数が世間とかけ離れない配点具合を習得できた。
そうしてみると、スペシャリティーコーヒーの基準となる80点というのは、今まで思っていたハードルとは違った。これまで、あちらこちらのコーヒーショップに行っては「こんなコーヒー出しやがって」と勝手に憤慨していたが、ああいうのもスペシャルティーで、そういう見方もあるんですね。ごめんなさい。
例の発酵臭の感覚はナチュラルのコーヒーにもよくある。よって、ナチュラルのセッションは苦労した。そもそも、山岸コーヒーはとてもシンプルなコーヒーだ。きれいに育てて、きれいに収穫する。悪いことを排除して作る。だから、どちらかというと引き算だ。あくを丁寧に取り続ける日本料理のようなものだ。昆布だしの美学だ。一方、ナチュラルは、あくにあくを重ねていくフランス料理のようなものだ。私にとっては、そういうコーヒーは情報量が多すぎるし、ボラティリティーが高すぎて、脳がとても混乱する。SCAAはそれをComplex(複雑)といって、ポジティブに評価するが、私はどうしても頭が混乱する。
しかし、逆に世間にはこういうコーヒーが好きな人は多い。彼らには山岸コーヒーは刺激がなく退屈なコーヒーと感じるかもしれない。自分で言うのもなんだが、山岸コーヒーはけれん味のないコーヒーだ。そう、けれん味がないのだ。ティピカ種をコナという最高のテロワールで育て、きれいに手摘みし、水洗して、天日(日陰)で干したコーヒーだ。コーヒーとはかくあるべし、コーヒー本来の香味だ。しかし、アメリカ人はけれん味が大好きだ。珍しいもの、ファンキーなものが好まれ高得点を取る。ファンキーな人の集まるコーヒー業界ではなおさらだ。
初日からSCAA方式に戸惑ったが、どうにかカッピングの点数をSCAAの基準に近づけることができた。しかし、終わってみると、やはりSCAAの基準に納得がいかない点も残った。
前述のとおり、山岸農園のコーヒーはクリーンさと甘さが信条だ。30分間良い余韻が残るほど雑味の少ないコーヒーだ。それを目標に一年間の苦労がある。クリーンさは、いかに健康に育て、きれいに収穫し精製するかが勝負。特にきれいに摘むことは最も重要。だから、山岸農園では、我々農園主が中心になって摘む。季節労働者に収穫作業を丸投げしたりはしない。クリーンカップは農家とピッカーの通信簿だ。ところが、SCAA基準だと、クリーンカップの項目はカビ臭などコーヒー以外の物に由来する香味があった場合に減点する項目で、大抵のスペシャリティーコーヒーは10点満点となる。
甘味に関しても、丁寧に育ててコーヒーの木のストレスを減らして、実がゆっくりと成熟するような工夫を重ねて、さらに完熟した実だけを丁寧に摘み取ることが秘訣だ。これも農家の一年間の努力の結晶だ。一方、SCAA基準だと濃度0.5%の砂糖水よりも甘ければよい。これもほとんどのスペシャリティーコーヒーが10点満点だ。
よって、農園がコーヒーの生産過程で一番難しい収穫のところで努力して、傑出したクリーンで甘いコーヒーを作ったところで、それが評価される仕組みになっていない。そういうコーヒーに両項目とも15点くらいの点数を付けたいところだが、それはかなわない。現状の評価方法だと、生産者にきれいな収穫をさせる動機が働かないと危惧する。だから、いつまでたっても収穫は季節労働者を信じられないほどの低賃金で雇うプランテーション時代からの収穫軽視の慣行が続く。日当たり、風通し、剪定、施肥など畑の設計や運営上の工夫、あるいは、セミナチュラル、天日干し、日陰干しなど乾燥・精製での工夫を語る農園主は多いが、それらよりも比較にならないくらい重要な工程、つまり、きれいに摘むための工夫を語る農園主は少ない。自分で摘まないから分からないのだ。ただ季節労働者に完熟豆だけを摘めと命令するくらいしか思いつかないのだろう。
最後になるが、SCAA基準に対する最大の不満を申し上げる。その基準たるや何が目的か不明だし不愉快でさえある。つまり、SCAAはカッピングテーブルの高さを42インチから46インチと定めている。今回の試験会場のテーブルはその上限の46インチだった。これだと奥の2列目のカップの臭いを嗅ごうにも、私には届かない。背伸びのし過ぎでふくらはぎが痛い。子供用の踏み台を持ってきてもらったが、すぐに他のアジア系女性の専用となってしまった。
SCAAのこういうアメリカ的な上から目線の態度はぜひ改めてもらいたいものだ。えっ?私の目の位置が低すぎるって?んん~。。。。
ハワイといえば虹だが、実は私は虹をほとんど見ない。
コナは島の西側。西に面した斜面だ。夕陽が目の前の海に沈む。
午後に雨が降ると山側に虹が出るが、私は普段山側を見ない。
我が家から見る水平線の景色は最高だ。夕陽が綺麗。
おまけに、コーヒー畑も海側にある。
だから、普段の生活で眺めるのはいつも海側だ。
山側に虹が出ていても、ほとんど気が付かない。
きっと、しょっちゅう出ているのだろうけど、気が付かない。
今日の夕方、我が家の下の隣人が、うちの畑の上に出た虹の写真を送ってくれた。
なるほど、こうなっているのか。