今シーズンのコーヒーの収穫終了
昨年7月から始まった今シーズンの収穫がようやく終わりました。
でも、雨が降ってきて干せません。急遽、ラナイで乾燥中。
収獲は終わったけど、まだ作業はあります。1割くらい未収穫の実が枝に残っているのを、すべて取り除き捨てます。害虫が翌年に繰り越さないための処置です。
その後は剪定。
精製、サイズ分け、出荷。
さらに土壌改良作業。
2月もなかなか忙しそう。
昨年7月から始まった今シーズンの収穫がようやく終わりました。
でも、雨が降ってきて干せません。急遽、ラナイで乾燥中。
収獲は終わったけど、まだ作業はあります。1割くらい未収穫の実が枝に残っているのを、すべて取り除き捨てます。害虫が翌年に繰り越さないための処置です。
その後は剪定。
精製、サイズ分け、出荷。
さらに土壌改良作業。
2月もなかなか忙しそう。
田園調布にお店のあるCafé Ginoさんに、私どものコーヒー豆の取り扱いを始めていただきました。
Coffee Q Graderの資格を持ち、カッピング国際審査員(SCAAアメリカスペシャルティコーヒー協会認定)を務め、ワインソムリエでもある藤野清久氏がコーヒー豆を厳選するCafé Ginoは、スペシャリティーコーヒーの老舗です。
そんな香味のプロの藤野氏に選んでいただいて光栄です。
素敵なパッケージも作っていただきました。
雑誌「珈琲と文化」の2017年冬号に拙稿が掲載されたので転載します。
どうしてコーヒーはこんなに安いのだろうか。
朝起きてボーとした頭を覚ますためにコーヒーを買う。出勤前にコンビニに立ち寄り100円。会社で顧客の無理難題に耳を傾けるには、よほど頭がすっきりしていないとだめ。どうしても朝の100円は欠かせない。
朝の100円のおかげで、わがままな客を顧慮するのみならず、無茶苦茶な上司を忖度し、訳のわからん部下を斟酌しながら、業務を勘考することができる。カフェインを注入しながら、一日中こんなことを繰り返すと、もう頭がパンパン。交感神経がビンビン活動して、帰っても寝られない。だから、朝と同じようなボーとした頭の状態に戻すために、どうしても帰りがけに赤提灯に吸い寄せられる。席に着くなり、生ビールとりあえず一杯。600円。なかなか一杯ではボーとできないので、どうしたって2~3杯は飲んでしまう。すぐに2000円くらいになる。
顧慮と忖度と斟酌と勘考を繰り返すサラリーマンにとっては、コーヒーもビールも日々を無事にやり過ごすための道具、つまり、脳のスイッチを操作する道具だ。もはや、これなしには精神の平衡を保ちながら、業務を遂行することは能わぬ。なのに、どうして頭のスイッチを入れるのと切るのではこんなに値段が違うのだろうか。
一方は、南米の山奥で開花から収穫まで8カ月間大切に育てられ、収穫の際には人間が日の出から日暮れまで欠陥豆が混入しないように一粒ずつ選びながら手で摘んで、一日の終わりに肩に担ぐかロバに載せるかして山を降りて、トラックに積んで、精製所に運んで、皮むきして、発酵槽に漬けて、果肉を洗い流して、乾燥して、数ヵ月保管して、パーチメントを剥いて、サイズ・等級分けして、欠陥豆を取り除いて、麻袋に詰めて、港まで運んで、船に載せて、大西洋を北上して、パナマ運河を通って、太平洋を端から端まで横断して、通関して、卸して、焙煎して、ブレンドして、配達して、抽出して、たったの100円。凄いでしょう?
もう一方は、ユーミンの曲「中央フリーウェイ」によると、中央道を八王子方面へ向けて走ると調布の先で「右に見える競馬場、左がビール工場♪」。あんなにそばから来るのにどうして6倍も20倍も高いんだろう。
そもそも、コーヒーはそんなに安くないとだめなのか。スイッチを入れる機能のほうが切る機能よりも、サラリーマン生活上よっぽど重要だと思うのだが。やはり、コーヒーは生産過程のどこかで手を抜いている。そして、不当に搾取されている人がいる。
コーヒーの最大の生産国はブラジル。コーヒーという植物は、そもそも森の中や山の斜面に植えて手で収穫するものだったが、ブラジルでは品種改良により直射日光の強い大平原でも育つコーヒーを植えて機械で収穫する。まったくゲームが変わった。人間が手で摘むのとは違って、暴力的に効率が良い。何百倍も早く収穫できる。
機械摘みは品質では手摘みにはかなわない。第一に機械で収穫するためになされた品種改良は香味を改善するためになされたものではない。さらに、機械だと完熟も未熟も過熟も欠陥豆も一緒に収穫するので、どうしても雑味が混入する。しかし、生産コストは圧倒的に安い。100円コーヒーを可能にする圧倒的な競争力だ。我々の信奉する資本主義では、革命的に効率的な生産方法を取り入れた者に資本と売り上げが集まり、そうでない者は取り残される。それが資本主義文明の進歩の原動力だ。
それに対抗するために手摘みの産地は収穫作業をする労働者への賃金を下げる。一日働いて数百円程度の賃金がまかり通っている。これでは丁寧に摘む意欲もわかない。
もうひとつの対抗策は品質を高め値段を上げることだ。そして、高品質のコーヒーを生産するには手作業で丁寧に収穫せねばならない。丁寧に収穫したコーヒーは苦味や渋みやえぐみなどの雑味がない。コーヒーは苦いものというイメージが定着しているのは、雑に収穫したコーヒーが巷にあるれているためだ。もちろん深煎りにすれば苦味がでるが、ミディアム程度の焙煎で苦いのは収穫に問題がある。
そもそもコーヒーは他の農産物とは違って、果実の熟度が揃わない。だから、同じ樹の同じ枝に熟した実と未熟の実が混在している中から、熟した実だけを選んで摘まねばならない。そして、数ヵ月の期間中に畑を何周もして収穫する。
この点がワインとの決定的な差だ。ワインはボルドーの貴腐ワインchateau d'yquemなどの特別な例外を除き、ブドウの収穫は10日間程度の短い期間内に一斉に行う。よって収穫の上手い下手が品質に与える影響は小さい。むしろテロワールなど畑の土壌・気候条件が重要となる。だからボルドーワインは、たとえ畑が道を挟んで隣同士でもその優劣が確定しており、逆転することは少ない。1855年の格付けは160年以上を経た今でもほとんど変更がなされていない。
コーヒーも確かに畑のテロワール・土壌・気候条件は重要な要素である。コーヒーの香味を語る場合、品種や国・産地が一般的な切り口として使われる。最近ではもうすこし細かく標高や農園名や乾燥方法が記されたりもする。しかし、これらの違いよりも、収穫の優劣の方が香味への影響がはるかに大きい。はるかに。
世界の農業は格段に技術が進化した。昔の日本は人口の8割以上が農民だったが、今では3%程度。農産物輸出国のアメリカでは2%以下だ。昔は人口を支えるのに国全体が農産物の生産に携わる必要があったが、今は2~3%程度の人で国民を食わせることができる。昔は田植え稲刈りは国民全員参加の一大イベントだったが、今は機械ですぐ終わる。それだけ効率が増した訳だ。
ところが、コーヒー摘みは100年前と同じ方法で手で摘んでいる。輸送手段はロバからトラックへ飛躍的に改善したが、手での収穫は100年前と変わらない。農家が技術革新を怠っていた訳ではない。そういう作物なのだ。確かに、機械収獲で格段に効率を上げることは可能だが、高品質のコーヒーを作るには完熟の実を手で選んで摘む以外にない。その最も重要な工程である収穫を担う労働者への報酬は極めて低い。
喫茶店の一杯のコーヒーの値段のうち、収穫労働者への報酬は0.1%以下。最も過酷な作業で、品質にとって最も重要な工程に、その程度の対価しか支払っていない。お粗末なコスト配分だ。これが企業なら潰れる。業界全体として上手く機能していない。労働者にとって不当だし、良質のコーヒーを望む消費者の利益にもならない。消費者が摘み方の上手い下手による香味の違いを重視し、良い仕事をした労働者へは相応の対価を払うようになれば、労働者にも丁寧に摘むインセンティブが働きコーヒーの品質が上がると思う。
きれいに収穫して美味しいコーヒーを作る。カフェインの効果で顧慮と忖度と斟酌と勘考さえできれば良いというのではなく、コーヒー自体が美味しいという価値の創造だ。100円コーヒーは資本主義の勝利で素晴らしいが、良質のコーヒーに価値を認め、それに見合った対価を払う文化も資本主義の産物だ。ワインにはそういう文化がある。
夜、ビールに600円とか2000円も払うんだったら、朝に一杯2000円のコーヒーがあってもいいじゃん。スイッチ入るよ。新年を迎え、コーヒー摘みもようやく峠を越えた。今シーズンは過酷だった。収獲中に畑で倒れて動けなくなることもあった。55歳の私コナ坂55は、まるで紅白の欅坂46。
一方、コーヒー摘みは単純作業。繰り返し続けると、色々なことが頭の中を通り過ぎていく。もっと美味しいコーヒーを育てる方法とか、金利や株価の行方とか。また、過去の様々な思い出が頭に浮かんだりする。でも、NY時代の仕事の思い出は辛いことばかりで、そこにはまり込むとため息ばかりがでる。気を取り直して、コーヒーを摘んでいて幸せだと自分に言い聞かせる。
もっと、頭を空っぽにして無心にコーヒーを摘みたいものだ。瞑想のように、呼吸に意識を向けながら摘んだりするが、いつの間にか、妄想にふけっている。まるで煩悩の塊だ。
畑にラジオを持ち込み、ホノルルの日本語放送KZOOラジオを聴きながらだと、とても楽に摘める。心の奥底に溜まった煩悩と格闘しなくて済む。また、家でじっとしながらラジオを聴くとすぐ飽きるが、コーヒーを摘みながらだと、不思議と朝から晩まで聴き続けることができる。しかも、3か月間毎日。
先日もKZOOラジオを聴きながら摘んでいたら、”Take the A train”(A列車で行こう)が聞こえて来た。ジャズのど素人の私でもこの軽快なメロディーは知っている。NYのマンハッタンのWest sideを縦断する地下鉄のA trainを曲にしたものだ。この曲がかかった瞬間、私の頭の中はNY時代にフラッシュバックした。
私はダウンタウンへの通勤にEast sideの地下鉄4・5・6番Trainを使っていた。West sideのA trainは普段使わない。一度、仕事帰りに、リンカーンセンター(West 64丁目)でメトロポリタンオペラを観るためにA trainに乗った。コロンバスサークル(59丁目)を過ぎて、そろそろ降りようしたところ、次々と駅を通過。次に停まった駅はハーレムの125丁目。週末の昼間のハーレム散策は楽しいが、夜に背広姿でハーレムなんかに用事はない。アポロシアターではなくリンカーンセンターに行きたいのだ。
しかし、なるほどと思った。”Hurry, hurry, hurry~♪“の歌詞のTake the A trainは、ジャズの本場ハーレムに急ぐなら、快速のA trainに乗ると速いという内容の曲である。確かに途中駅を全部すっ飛ばして速かった。そういう曲だったのかと得心できただけに、回り道だったけれど、少し得をした感じがした。
ハーレムから慌てて引き返した。既にオペラは開演直前。地下鉄を降りて会場へ急ぐと、開演を知らせるボーンという音が鳴っている。妻と慌てて走った。妻は小学生時代に短距離走で千葉県2位。足は速い。リンカーンセンターのドアをすり抜け、赤絨毯の美しい階段を一気に駆け上がると、目の前でホールのドアがまさに閉まろうとしている。”Wait!”と叫びながら駆け寄ると、前を走っていた妻の体が宙に飛んだ。ヘッドスライディングでドアに飛び込んだ。実はドアの直前は急に下り坂になる。ハイヒールで全力疾走していた彼女は下り坂を踏み外してしまった。漫画のキャラクターのように、走っている途中で足を宙にクルクル回転させながら転倒する人を初めて見た。
こんな思い出に浸っていると、突然、妻の「ギャー」という叫び声がした。我に返ると、そこはコナのコーヒー畑。ラジオから流れるTake the A trainの曲は既に終盤に来ている。コーヒーを摘んでいた彼女はいきなり蜂に襲われ刺されたらしい。
「Take the A trainなんか聴いてるから、蜂(Bee)が怒ったんだよ」というと、彼女は涙目で「なんで?」と尋ねる。「蜂だけにB Trainじゃないと」。。。
灌漑パイプの水やり時間をコントロールするコンピューターが壊れたので、新しいものを買いに行った。するとお店は混んでいる。
何事かと尋ねると、列をなしている男たちは子供へのクリスマスプレゼントにパイプなどの灌漑施設のパーツを買いに来たという。各自、長いリストを用意していて、太さの違うパイプ、T字や直角に曲がるための接続部分、ドリッパーなどの色々なパーツを買いそろえている。
クリスマスにプレゼントされた子供たちは、それを組み立てて、母親の家庭菜園用に使うらしい。店主によると、今週はこういう客が多いそうだ。
子供が学べて母親も大喜びのクリスマスプレゼント。さすが農業の村Kailua Kona。
コーヒーの収穫はほぼ9割ほど終わった。10月以降、3日間しか休めなかった。もう、体がボロボロ。重いコーヒーを運びすぎて腰痛でうまく歩けない。
そこで、この週末はなんと3日間も連続で休んだ。とても贅沢な気分。Star Warsも初日に見に行ったし。
しかし、残りの収穫と年明けの剪定に向けて作業は残っており、まだまだ忙しい。昨日から作業を再開した。
ところが、今日は朝から久々のまとまった雨。こんな豪雨では仕方がない。やるべき事がたくさん残っているのに、家の中でぐだぐだ。なんだか、ずる休みしたみたいで、ちょっと罪悪感の混じった、このぐだぐだ感がたまらない。あ~仕方がない、仕方がない。ぐだぐだぐだぐだ。
今年のコーヒー収穫のピークもようやく終盤。近所の農園ではもう収穫が終わって剪定作業に入っている所が多い。うちの農園はコーヒーの実がゆっくり育つために、例年、収穫が近所よりも1カ月以上長く続く。今シーズンも1月までは続きそうだ。
ところで、いつも、収穫を手伝ってくれるメキシコ人グループの中のA君。このところ、何かに取り憑かれたように、コーヒーを摘んでいる。毎日、夜明け前からやってきて、うちの門の前で待機している。まるで競馬の出走ゲートにいる馬の様だ。そして、スピーカーを畑に持ち込み大音響でラテン音楽を聴きながらコーヒーを摘む。
あまりの大音響に私は少し離れて作業をするようにしている。遠くから聴くと、低音のチューバが小気味よくリズムをきざんで、とても軽快に感じる。私も陽気なリズムに乗って収穫できるので楽しい。ラテン音楽が癖になりそうだ。
先日、うちの妻が面白いことに気が付いた。スペイン語のできる妻によると、A君は切ない恋の歌や失恋の歌ばかりをかけている。たまに、ハッピーな歌がかかると、収穫の手を止め、その曲をスキップ。そしてまた悲しげな歌がかかる。身長180センチ以上で体重は優に100キロを超えるマッチョな巨漢の割に、センチメンタルな趣味の持ち主だというのが、妻の分析だ。私には陽気なラテン音楽としか聞こえないが、悲しい曲なのか。チューバのリズムに乗って「君は僕の吐く息、吸う息、君が僕の命の全てだ」。スペイン語って不思議な表現をする。
そこのところをグループの他のメンバーに尋ねてみた。すると、「そうなんだよ。俺たちも、悲しい曲ばかりで困っているんだよ。実はA君、最近、恋人にフラれて、それ以来、こんな感じ。そんな悲しい曲ばっかり聴いていると、良くないよと、皆で忠告しているんだけど、止めないんだよ」、という事情らしい。
コーヒー畑にも色々なドラマがあるんだなぁ。傷ついた心をコーヒーにぶつけていたんだ。てっきり、快活な音楽に陽気な人々と思っていたのに。
米国では11月23日が感謝祭(Thanksgiving Day)だった。人種・宗教の区別なく、米国民の誰もが祝う祝日。収穫祭の側面もあるが、様々な人やもの、あるいは神に感謝を捧げる日。一般の家庭では七面鳥をたらふく食べてゴロゴロする。中には、恵まれない人を招いて饗応する立派な家庭もある。感謝を捧げる(Thanksgiving)のがその精神だ。
この時期はコーヒー摘みのピーク。今年は10月上旬からほとんど休まずに働き続けて疲労困憊。ついに、感謝祭の前々日、100ポンドの袋を運んでいる最中に、完全にエネルギーが切れた。甘いものが欲しい。地面に四つん這いになりながら、最後の力を振り絞って出た言葉が「カルピス飲みて~」。それきり体が動かなくなった。
仕方がない。感謝祭と前日の2日間は収穫を中断して休息することにした。初日、カルピス片手に休息に努めていると、収穫を手伝ってくれているメキシコ人から電話。どうしても翌日の感謝祭にコーヒーを摘みたいという。メキシコ人には感謝祭の習慣がない。どのコーヒー農園も休むので、収穫のピーク時に唯一、収穫をするメキシコ人達が余っている日だ。彼らと一緒に、今年も感謝祭の日にコーヒーを摘むことになった。確かに、感謝祭は収穫の遅れを取り戻す良い機会である。感謝感謝。
20数年前、まだ邦銀のNY駐在員時代、感謝祭の日に私は妻を連れて休日出勤した。妻はロースクールの学生だったので、会議室で勉強。オフィスには誰もいない。仕事に集中できる。服装も自由。我々は留学時代に買ってもうボロボロになったYale大学のスウェットシャツ。気軽な恰好。仕事がはかどり気分良く退社。帰宅途中にTudor Hotelの入口に感謝祭ディナーの広告を見かけたので入ってみた。レストランは豪華なディナーを囲む家族連れで大賑わい。皆、着飾っている。特別な日だ。我々だけがボロボロのシャツ。いかにも場違だが、着替えて出直すのも面倒なのでそのまま着席した。
コースメニューに加えてワインも注文。次々と出る料理を堪能しいると、隣の席に一人のおじさん。こちらを見て微笑んでいる。「こっち見てニヤニヤしないでよー。嫌~な感じ」とか、「感謝祭に一人で寂しいの?仲間に入れてやろうか」など、日本語が通じないのを良いことに憎まれ口を言いながら食べ続けた。すると、おじさんはウェーターに我々のワインの値段を聞いている。「もー。服がボロボロだったら、フランスワインを注文しちゃいけないのかよー、おっちゃん!」と、またも妻と悪口で盛り上がった。
デザートまで平らげ、もー満足満足。勘定を払おうとすると、店長が直々に出てきて、厳かに「お支払いは結構です」。「えっ???」。よくよく尋ねると、隣のおっちゃん、じゃなくて、隣の紳士が支払っていったという。気が付けば、彼はいなくなっている。ボロを着たアジアからの苦学生が、感謝祭に暗いNew Havenの田舎町から華の都New Yorkへ来て、精一杯の贅沢な食事に、はしゃいでいると映ったのだろう。酔っ払って、彼の悪口で盛り上がっていただけなのに。その紳士にお礼がしたいと願ったが、「誰かは口止めされています。これは感謝祭の伝統なので、どうかお受け下さい」と、紳士的に諭された。罰当たりな我々を紳士たちは気品に満ちて饗応してくれた。
感謝祭の伝統。これが感動せずにいられようか。その後しばらく、日本人駐在員仲間に、諸君もアメリカの感謝祭の伝統の精神を学ばねばならないと談じて回った。
翌年、また感謝祭の日が来た。感謝祭の伝統を説いて回った私だが、根が卑しい。我家の伝統にするなら、ご馳走してもらう側が良い。前年と同じ服を着て、同じように休日出勤をして、同じ時間にTudor Hotelへ向かった。もう伝統だ。しかし、レストランは潰れていた。その一画は暗く、電灯は消えていた。
https://www.youtube.com/watch?v=BKZAL6gnJPo&feature=youtu.be
収獲のピーク。今シーズンはこれまで26,300ポンドのチェリーを摘んだ。あと、10,000ポンド位かな。38日間で1日しか休んでいなかったので、疲労が蓄積して、昨日は畑の中で動けなくなった。体重も2キロ減った。今日は久々の休息。
このところ、コーヒーの根元を掘り起こす奴がいる。豚の仕業かと思っていたら、実は近所の鶏。うちの畑には野生の鶏も生息しているが、彼らは人が近づくとすぐに逃げる。
こいつらは、近所の人が飼っている鶏なので、近づいても平気。まんまると太っているくせに、うちの畑におやつを探しに来るらしい。土の中の虫を食べているらしい。コーヒーの実を与えたが全く興味を示さなかった。夕方になると、ちゃんと道を渡って帰っていく。
それにしても、私が痩せ細っていくのにぶくぶく太りやがって。体力回復のために、今日はチキンを食べに行こう。
小池百合子氏の「排除します」発言が話題になった。そんな言葉尻の是非よりも、日本の「国難」は金融・財政政策が共に破綻寸前という現状にある。なのに破綻回避の政策が争点にならないのは不思議な国だ。国が破綻したら国民は塗炭の苦しみ。福祉も医療も年金も教育もストップ。おまけに、誰もコーヒーなんか買わなくなるから私は困る。
さて、コーヒーの生産では「排除」はとても重要。高品質のコーヒーを作るには、様々な段階で好ましくない豆を取り除く。コーヒーは苦いという通念があるが、実は健康なコーヒー豆は苦くない。欠陥豆を丁寧に排除すると、苦味などの雑味がなくなる。もちろん、深煎りすると苦味はでるが、ミディアム程度の焙煎で苦味が出るのは排除が足りない。
私どもの農園では、収穫の際、あるいはそれ以前の段階から排除を繰り返す。まず、前年の収穫が終わると、枝に残った摘み残しの実を全て取り去る。摘み残すと、実の中のCBBという害虫が翌年に繰り越されるので、畑からCBBを住処ごと「排除します」。
春に新たな実が成長してくると、畑の全ての実を確認してCBBの虫食いになった実を「排除します」。CBBは放っておくと級数的に増える。早い段階で駆除して被害の拡大を食い止める。この作業は春から収穫シーズンまで続けられる。
収穫期は収穫の直前に、全ての木を見て回り、過熟して乾燥した実や熟さずに腐った豆などを取り除く。収穫の担い手のピッカーたちが、効率的に摘めるように、好ましくない実はあらかじめ「排除します」。
収獲中にはピッカー達の収穫用バスケットの横にジップロックの袋を取り付ける。バスケットの中には完熟した実だけが入るようにして、過熟実、腐敗実、乾燥実、未熟実などはジップロックへ入れて「排除します」。
ピッカーが摘んできた実は一か所に集めらる。写真のように、それを私がすべて確認して、好ましくない実は「排除します」。
隣の畑のJoeを見かけると、手を振って大声で挨拶、「ハイ ジョー!」します。
収獲した実は、夕方に精製所(Wet mill)へ持っていく。まず、水の中を通す。過熟して乾燥した実や、腐敗した実や、成熟不良の実は水に浮くので「排除します」。
沈んだ実は皮むき機に送られる。完熟した実は柔らかくて簡単に皮が剥けて、中のパーチメントを取り出すことができる。実が固く剥けないものは「排除します」。
皮が剥けたパーチメントは発酵槽で水に漬ける。虫食い、腐敗豆、生育不良豆などは浮いてくる。ボートパドルで何度もかき回し、浮いたパーチメントは「排除します」。
収穫シーズンが終わると、精製所(Dry mill)で、パーチメントの皮とシルバースキンを取り除き、生豆(グリーン)を取り出す。生豆は機械でサイズ分けする。サイズの大小による品質の優劣はないが、焙煎する際にむら焼きを避けるためにサイズをそろえる。この際、極端に大きい豆と小さい豆は「排除します」。
次に比重選別機で、中が空洞の貝殻豆や生育不良で比重が軽い物などは「排除します」。
さらに、私どもの農園は虫食い率が充分低いので採用していないが、農園によっては、日本のコメ用の色選別機を改良した機械で虫食いなどで変色した豆を「排除します」。
上述の精製所での様々な排除は、他の農園でも一般的に行われているが、前半の畑の中での排除は、私ども独自の作業。精製所のみならず、畑でも排除を繰り返すことによって、苦味、えぐみ、渋みなどの色々な雑味を「排除します」。
「排除します」。嗚呼、なんと美しい言葉。