美味しいコーヒーとはピッカーがきれいに収穫したもの。健康な完熟実だけを摘むと、フルーティーでクリーンなコーヒーになる。甘味さえ感じる。逆に、いい加減に摘むと雑味が増えて苦くなる。飲んだ後に口の中に苦味や渋みやえぐみが残る。つまり、苦いコーヒーは、いい加減に育て、いい加減に収穫したもの。健康なコーヒーは後味がスーっと心地よく消えていく雑味のないクリーンなコーヒーだ。大きめのマグカップのコーヒーを30分以上かけて冷めても、苦味や渋みやえぐみなどのイヤな後味が残らない。
もちろん、深く焙煎をすれば苦味が強くなる。それは構わない。複雑な香りに魅惑されるも良し。しかし、ミディアムでも苦味が出るのは良くない。
一方、先月号で述べた通り、現在は低賃金の劣悪環境でコーヒーを摘むピッカー達は、経済発展したら、今の労働条件ではコーヒーを摘んでくれないかもしれない。つまり、将来は美味しいコーヒーを飲めなくなるかもしれない。どうしよう。
ピッカーの取り分を増やさなければならない。私は経済協力やフェアートレードなどの人道的支援を提唱している訳ではない。そのような形で消費国が誠意を示したところで、きれいに摘んでくれる保証はない。援助資金を与えようが、青年海外協力隊が井戸を掘ろうが、フェアートレードで地元に学校を作ろうが、それと収穫は別だ。ひょっとして感謝はされても、それは消費者への感謝ではなく、神への感謝かもしれない。
そもそも見返りを期待しないのが慈善活動。伊達直人(タイガーマスク)は匿名だ。援助やフェアートレードの見返りに美味しいコーヒーを作れというのも成り立たない。第一、コーヒーをきれいに摘むインセンティブをピッカーに与えない。
また、日本のコーヒー関係者が生産国へ行って、「赤い実だけを摘むように指導した」という話をよく耳にするが、あれだけしか払わないくせに、よくそこまで言えるなあと感心する。ましてや、昔のように生産国政府がコーヒーを管理して価格を維持することを提唱するものでもない。それではスペシャリティーコーヒーの出現以前の状態に逆戻りで、生産者に良いコーヒーを作るインセンティブはなくなる。
指導や人道的動機も大切だが、やっぱり人を動かすのは金だ。経済的合理性だ。私は消費者がきれいに摘んだ美味しいコーヒーと、そうでないコーヒーを見分けられるようになってほしい。それが良いコーヒーに高い値段を払う経済的合理性を生む。
奴隷制やプランテーション方式、あるいは時代が下がって、生産国各国の価格維持政策等の管理主義から生まれた粗悪なコーヒーによって長いこと消費者の好みが培われた。コーヒーほど傷んだものが、ごちゃ混ぜで堂々と売られる食料品はない。普通スーパーに並ぶ食品は皆きれい。農作物はきちんと育ったものを美味しいと評価するのが普通で、それがその農作物の味というものだ。いい加減に収穫した出来損ないを口にしておいて、こういう調理法(焙煎・抽出)が良いだの悪いだの、砂糖やミルクを入れると飲みやすいだの論じられる農産物はコーヒー以外にはない。しかし、最近のスペシャリティーコーヒーの登場で良質な豆が流通して、人々の好みが変化しつつあることは喜ばしい。
ピッカーがきちんと仕事をしたコーヒーは甘くてフルーティーだ。それをいい加減な生産方法の苦いコーヒーとごちゃ混ぜにするから、良い仕事をするピッカーへの感謝が湧いてこない。感謝されなければ(正当な賃金を貰えなければ)、きれいに摘む気にならない。スペシャリティーコーヒーの世界も「COE入賞の○○農園凄い!」ではなく、「○○農園のピッカー凄い!」という消費者の声がその農園主とピッカーに届けばなお良い。