雑誌「珈琲と文化」2019年夏号に拙稿が掲載されたので転載します。ハワイの日系人の英語とコナコーヒーを牽引した偉人の話です。ご笑覧ください。
中学校の英語の授業で、挨拶は“How are you? ” “I am well, thank you”と習った。アメリカ流にI am fineと答えても良いとも教わった。伝統的イギリス英語ではHow are you?は、「おかげんはいかがですか」と、相手の健康状態を尋ねているので、答えは、心身ともに具合は良いI am wellとなる。だから、アメリカ流のI am fineは、昔のイギリス英語であれば「私は良い人間だ」となり、少し的外れで、くだけた表現である。しかし、現代のアメリカでは、それでさえ丁寧すぎる。I’m good.とか、単にGood!の方がより一般的。さらに、私が働いていたウォール街の会社内では“What's up, Man? ” “Nothing”などのもっとくだけた挨拶も多く耳にする。I am wellなどと英国風の丁寧な挨拶をするのは部下のインド人ぐらいだった。
コナの日系の老人たちにも独特の挨拶がある。道で会うと秋から冬は“Picking coffee? ”(コーヒー摘んでいますか?)、春には“All pau?” (今年のコーヒー摘みは無事終わりましたか?Pauとはハワイ語で終わるの意)と、いかにもコーヒーの村ならではの挨拶。それも、すごいピジン英語訛りなので趣がある。
かつて日本人町だったコナも近年は観光地化し米国本土からの移住が増え、日系人はむしろ少数派になっている。Picking coffee? は父祖の代からのコーヒーをハワイ訛りで語ることで、地元の同胞意識を再確認する。しかし、これは良く考えると、老人同士がコーヒーを摘めるほど健康ですかと訊いている訳で、強烈なピジン訛りとはいえ、まさに相手の健康具合を尋ねる正統派英語に沿った挨拶といえる。
コナの英語には多くの日本語が残っている。例えば、コーヒーをメリケン・コッペ(アメリカコーヒーという意味)という。そのほかにも、
Hoshidana(乾し棚) コーヒーを乾燥するデッキ
Kagi(鉤) コーヒーの枝を引っ掛けてたわませるフック
Mushiro(筵) コーヒーを乾燥するときに地面に敷くタープ(防水布)
Hinoshi(火熨斗) アイロン
Mochitsky(餅つき) 餡子やDaikonzuri(大根おろし)やピーナッツバターで食す
Bento (弁当) 畑の昼の至福のひと時 色々なOkazu(おかず)が入っている
Furo (風呂) 畑仕事で疲れた後はコーヒーの枝で沸かした五右衛門風呂
Chicken skin(鳥肌) 畑の早朝は寒いので鳥肌がたつ(英語では本来Goose bumps)
40 year old shoulder 四十肩になると高い枝のコーヒーが摘めない
Go shi shi トイレに用足しに行くこと
Just a skosh 少しだけ
Taran 短い 足りない
Taran taran まぬけ(二つ重ねると知恵が足りないの意)
昔、ハワイにはKotton-kun(コットン君)という言葉があった。カリフォルニアなどのアメリカ本土の日系人を指す悪口。頭の中が空っぽだから、転んで頭を打つと、コットンと音がするという意味らしい。かつて、コーヒー畑や砂糖きび畑で真っ黒に日焼けし、愚直に農業をしてたハワイの日系2世・3世には、色白で何かにつけてうまく立ち回り要領の良いアメリカ本土の日系人は軽薄で頭が空っぽに見えたらしい。しかも、洗練された標準英語を話すものだから、すごい訛りのハワイの日系人はずいぶん劣等感を感じたようだ。Kotton-kunという悪口はその劣等感の裏返しの対抗意識のように思える。
ホノルルよりもさらに田舎のコナの英語は訛っているなんてもんじゃない。うちの妻は英語のネイティブだが、彼女でさえ、引っ越してきた当初は、この村の日系人が何を言っているのか分からないことがあった。
Picking coffee? の挨拶にしても、たった2単語しかないのに訛っている。疑問文なのに語尾が下がるハワイ独特のイントネーション。数をかぞえても「One, Two, Tree」、thを発音しない。おまけに、日本人の英語と一緒で語尾のRは発音しないので、Mother(母)はMaddahと発音する。
映画評論家の小森和子おばちゃまの「モアベター(more better)」は、比較級が重複して文法的に誤った表現だが、ハワイでは、普通に使われる。しかも、発音はR抜きなので、Mo Bettah(モーベタ)となる。
年配の方々には標準英語を話せない人が多い。もし、あなたの英会話の先生がハワイ出身の老人ならば、ちょっと心配だ。しかし、テレビで育った世代は標準英語を使えるので大丈夫。その世代でも、仲間内ではハワイ弁だ。ハワイ出身のオバマ前大統領は演説の名手。分かり易い表現で歯切れが良い。しかし、彼もハワイで幼馴染と会うと、「ホワイドハウズはちかれたびー。ゴルフいぐべー」てな具合に話しているに違いない。会ったことないけど、そうだと思うよ。きっと。ウォーリー与那嶺だって灰田勝彦だってアグネスラムだってみんな訛っていたに違いない。会ったことないけど。たぶん。
戦前のコナの日系人の子供は、週末には日本語学校へ行き、日本語や修身を教わった。1世の親・祖父母たちは、子供たちが、英語の学校よりも日本語学校で良い成績を取ることを喜んだという。ところが、真珠湾攻撃の日を境に、日本語・修身教育は消えた。だから、現在85歳ぐらいの方々は日本語を話すが、その年代を境に日本語は通じなくなる。
若い世代の日系人は日本語をほとんど使えない。しかし、日本的な考え方を受け継いでいる。彼らは、傾向として、控えめで、礼儀正しく、忍耐力があり、思いやり深く、しかも、質素倹約的だ。日本語を話せない若い世代でも、会話の中に、”Shikatanai”とか“Mottainai”などの単語が使われる。英語には対応する単語や概念がないので日本語の単語が使われるのだ。
以前、植村花菜の「トイレの神様」という歌が流行った。トイレ掃除をすればべっぴんになるとお婆ちゃんから教わったという歌詞。トイレ掃除の話は初耳で、とても印象的だったので、曲を聴いた翌日、ゴルフの最中に日系3世にこの歌の説明を試みた。しかし、直ぐに私のつたない英語力では説明不能と悟った。英語にならない概念だ。ブクブクと溺れて自滅しかけたところ、「綺麗な女神がいるかどうかは知らないが、トイレを掃除すればか可愛い赤ちゃんが生まれると、親から教わった」との答えが返ってきた。昔の日系移民は子供たちにそう教えたそうだ。
明治の移民の気質が世代を超えてこの地に保存され、もう日本ではすっかり忘れ去られたことが、ここに残されている。
さて、今年の4月に私が尊敬する日系2世のTakeshi Kudo氏がお亡くなりになった。享年97歳。タケさんとは、数年前まで一緒にゴルフをさせていただき、コーヒー栽培についても色々と教わった。彼はコーヒー農家のリーダーとしてコナを牽引した歴史的人物。もちろん、しっかりとした日本語を話す。
彼は第2次世界大戦中、日系人で編成された442部隊で欧州戦線で活躍した。442部隊は日本でもドラマやドキュメンタリーで幾度か紹介されている。大戦中、日系人は強制収容所に入れられるなどの差別を受けた。そんな窮地に陥った日系人社会を救うために、2世・3世の若者たちが戦争に志願してアメリカへの忠誠心を示した。日系人部隊はドイツ兵に囲まれたテキサス大隊兵を救出するために、テキサス兵の人数よりも多くの犠牲者を出しながら、敵の包囲を突破した。彼らの目覚ましい活躍が日系人の地位向上に資したとの紹介がなされる。
タケさんにその話を向けたところ、意外な答え。「そんな美談ではない。親・祖父たちの世代から、お前らが戦争に志願すれば、俺たちが助かると言われ、嫌々戦争に行った。戦争に行ったことも、戦場での戦いも誇りに思うが、あの親たちの仕打ちは今でも許せない」。なんだか、テレビや書物から得た知識とはかけ離れていて、ぐうの音も出なかった。
戦後はコナでコーヒー農家に戻った。当時のコナコーヒー農家は日系人が中心で、世界のコーヒー市況に翻弄され、生活は苦しかった。彼は同志たちと農協を立ち上げ、その会長として、また、コナ選出のハワイ州議会議員としてコナの町とコナコーヒーの発展を牽引した。現在のコナはコーヒー生産地としては小さな存在だが、当時はコーヒー栽培研究の最先端で、栽培技術で世界をリードした。
また、彼は世界に先んじてコナコーヒーに等級制度(Extra Fancyを筆頭に Fancy, No.1, Prime等の等級)を導入した。村全体で高品質のコーヒーを作ることに人々をまとめ上げ、遂に世界のコーヒー市況よりも高い値段でコナコーヒーを流通させることに成功した。
実は、私の畑に関しては、Extra Fancyが一番おいしい訳ではない。粒の大きい順にExtra Fancy, Fancy, No.1だが、どのサイズが美味しいかは年によっても農園によっても違う。コナの農家の間では常識で、鑑定士や商社の人の間でもその認識は共通している。ところが、日本の消費者には大粒のKona Extra Fancy信仰が定着していて、高い値段を払ってくれる、不思議だが、ありがたい存在でもある。確かに大農園では、どう栽培しているか定かでない数百軒もの小農園からコーヒーを買取り、ごちゃ混ぜにして精製するので、サイズの大きい方が無難ではあるが、トレーサビリティーのある、より高級な単一農園のEstate Coffeeは別である。
こんな私見を述べたところで、認証制度を作ったタケさんらの業績にキズがつく訳ではない。Specialty Coffeeという概念を知る現代の我々には当たり前に見えるが、当時のコーヒーは、まったくのコモディティーで、そこへ、品質という概念を導入し、コナコーヒーを世界の市況と切り離し、高い値段を付けることに成功したのは凄い。世界中の誰にも見えなかったことが彼には見えていたのであろう。
彼はここ数年、耳が遠くなり、会話にも苦労するようになった。2年前に一度、危篤に陥った。医者は家族にあと数時間の命だと告げた。なんとタケさんには、そのひそひそ話が聞こえた。その瞬間、奥様を残しては死ねないと思ったら、急に力が湧いて生き延びたという。そして、昨年、奥様を見送り、今年、追うように逝った。442部隊ではアメリカと日系人のために戦い、戦後はコナコーヒーを一級品にするために戦い、最後は奥様のために病と戦った。
「ワシはアメリカ人じゃが、心は日本人」の声と笑顔が忘れられない。