少し古くなりますが、雑誌「珈琲と文化」7月号の拙稿を転載します。
スペシャリティーコーヒーの要件の一つはトレーサビリティー。誰がどのように生産したかが追跡可能。生産者も消費者に見られていると思えば、きちんと生産する。きちんと生産すればコーヒーは美味しくなる。美味しくなれば、ますます消費者はその生産者に注目する。正しく育て、正しく収穫し、正しく精製したコーヒーは美味しい。これを世に知らしめたのがスペシャリティーコーヒーの真価である。
SCA(Specialty Coffee Association)は酸味派の代表。SCA基準(ミディアム焙煎)のカッピングでは酸味の良し悪しで点数が変わる。一方、苦味は減点要因とされる。コーヒー愛好家の間では、比較的新しい勢力のSCAのコーヒー評価基準には賛否両論ある。
「SCAの評価基準はコーヒーの好みの偏った人々が作ったから」との批判を伺ったことがある。なんだか奥歯にものが挟まったような言い方だ。「味覚音痴のアメリカ人の言うことなんかに、いちいち付き合ってらんねえ」という本音が透けて見える。確かに在米三十二年の私でもアメリカの食文化には驚く。
もちろん、アメリカにも味覚の鋭い人は多くいる。アメリカ人の味覚を一般化することは不可能だし、他国民を一括りに論じるのは不謹慎でもある。しかし、あえて、私の限られた個人的な経験から言えば、いくつかの特徴を感じる。
まず第一に、量が多いことが美味しさの条件。同僚や友人が「あのレストランは美味しい(Food is good!)」という場合、たいていは量が多い。その証拠に、マンハッタンに住んでいた頃、近所のパンケーキ屋はいつも長蛇の列で、厚手のパンケーキが6枚重ね。フレンチトーストは食パン一斤がまるごと皿に乗って出て来た。それを平らげながら知人が言うには、フランス料理や和食のように小さなものをチマチマ出されると食べた気がせず、皿から溢れんばかりにドッカンと乗った食べ物と格闘するのが美味しいらしい。私が思うに、アメリカ人がビッグマックをこよなく愛するのは、口に入らないぐらい大きいからだ。
コーヒーも、アメリカ生まれのラテアートは味よりも見た目で勝負。加えて、表面張力への挑戦。溢れんばかりの状態が「美味しいコーヒー(Good coffee)」を暗示する。
普通のコーヒーもコーヒーショップではマグカップの淵までなみなみと注ぐ。おまけのサービスというよりも、店員さんは、「最後にコーヒーを美味しくするためのひと工夫」と真摯に誠意を示しているものと推測される。こぼれないようにそっとマグカップを手渡す際にニコッと見せる自慢気な笑顔にそれを見て取れる。
渡米したばかりの頃は、そんな真心も気づかずに、「おーとっとっと、溢れて指でも火傷しちまったら、いってぇ、どうしてくれるんでぇ。」と腹を立てた。今では、大人げなかったと反省している。溢れるのはコーヒーではなく誠意。量が多いことが美味しさの条件という立場にたてば、そのことに理解が及ぶ。
マクドナルドのコーヒーをこぼして火傷をしたと、マクドナルドを訴えた女性の話は、アメリカの訴訟社会の例として頻繁に引用される。しかし、あれは、コーヒーを美味しくするためにカップの淵まで溢れんばかりに入れると、こぼれ易いという物語でもある。行き過ぎた誠意は誤解を生むという教訓でもある。
次に、アメリカ人の味覚の第二の特徴として、私は渡米直後に「アメリカ人の舌は子供の舌」説なる珍説を考え付いた。アメリカ人が好きな食べ物は、日本でも子供の大好物。ハンバーグ、ピザ、アイスクリームなどなど、いくらでも例を挙げられる。
日本でいうところの大人の味、珍味という味覚がある。旨い酒を飲みながら、ウニ、フグの白子、カラスミ、塩辛、サンマのわたなどをチビチビとつまむと、私などはたまらない。しかし、アメリカ人に出したら「ウッ、吐きそう!」と言われた。
各国の料理は、その国の長い歴史の中で育まれたもので、大人になる過程での経験が必要。それぞれの国に珍味と言われるものが存在する。一方、アメリカには様々な国からの移民で成り立ったので、各国独自の珍味は切り捨てられ、多様な民族の味覚の最大公約数の部分が残る。それは、それぞれの民族の歴史的背景を超越したホモサピエンス本来の好物だ。ホモサピエンスとして真っ白な汚れの無い子供の味覚でもある。だから、アメリカ人は大人になっても子供が好きな料理が好き。逆に、イカの塩辛を食べられないからって、アメリカ人を侮ってはいけない。珍味はそれぞれの国の奇習だ。これが私の説。
これをもとに、30年も前に、アメリカで当時流行の寿司、天ぷら、すき焼きの次は、日本風のラーメンとカレーライスが流行ると説いて回った。われながら、ある程度は当たったと思う。でもね、すき焼きの割り下のようなスープに中華麺を入れてラーメンと称するのは勘弁してほしい。まあでも、アメリカ人にはアリかな。
彼らははっきりした甘味や油分や脂肪分が好きだ。サラダなど野菜を食べているのかドレッシングを食べているのか分からない。菓子はバターでベトベトで頭が痛くなるくらい甘い。口に入れると脂でギトギトで、砂糖がジャリジャリいう。砂糖の取りすぎで、甘みに対する感度が鈍いから、日本風のほんのり甘い菓子では刺激が足りない。だから、スタバは糖蜜屋か乳製品屋と見まがうくらい子供っぽい飲料を供する。
旨味に関しては日本人は圧倒的に鋭敏だが、アメリカでも肉料理やトマトやオニオンやマッシュルームのスープなどは好まれるので、彼らも感じている。しかし、Umamiは舌の上にうまみの受容体が発見され、専門家の間で五味に加えられて日が浅い。Umamiという単語が使われるが、なじみが薄い。時にはMeaty taste(肉っぽい味)と訳されたりするからややこしい。昔、お吸い物に「なに、この熱した塩水は?」との感想がきてがっかりしたものだ。
最近は、この新たに味覚に昇格したUmamiを語る気取った連中が増えて来た。レストランのメニューには、ステーキや魚の味付けに、Shiitake、Miso、 Konbudashi、Teriyakiなどの単語が踊る。SCAでもUmamiをコーヒーの評価基準に入れるべきとの主張を耳にする。確かにコーヒーにはグルタミン酸などのアミノ酸が含まれているらしい。しかし、こうなると、もう私はついていけないし、ほとんどのアメリカ人は全滅だろう。
ところで、ニューヨークには大富豪がいる。彼らと会っても面白くもないが、彼らのお抱えの運転手や料理人やプライベートジェットのパイロットなどと親しくなると、面白い話が漏れてくることがある。例えば、NYの社交界では常連の大富豪の奥様。派手好きで、パーティーでは同じ靴・衣服は二度と着ないので、年間の衣装代は4億円を超える。雑誌にセレブのパーティーの写真が出ても、夫はいつもカメラに背を向けている。夫は生まれながらの金持ちなので目立つことは嫌い。ところが、彼女は違う。ドンドン、カメラに向かってポーズをとるので雑誌の常連だ。衣装代がかさむ訳だ。
彼女はとてもやり手。なにせ、前妻を蹴り出し、自分の努力と才覚でその地位を獲得したのだから、大いにセレブとして振る舞う権利がある。パーティー以外でも大富豪同士の社交は重要で、高級レストランでの肩の凝る食生活をこなしている。
そんな彼女にも秘密がある。週に一度は、お抱え運転手を連れ出し、マクドナルドのドライブスルーでビックマックを買って、マックの駐車場で人に見られぬよう黒ガラスの後部座席でうずくまりながら、むしゃぶりつくのだ。やっぱり、デイビッド・ブーレーのフレンチ料理よりもビックマックだ。シャトーマルゴーの赤ワインよりもダイエット・コークだ。すごい勢いでむしゃぶりつくものだから、後部座席は食べ屑だらけになる。夫に気付かれぬよう、きれいに掃除するのは運転手の重要な役目。
夫に秘密にするぐらいだから、どうやら、彼女はビックマックなしでは生きていけないことに後ろめたさを感じているらしい。しかし、社交界のお友達のドナルド・トランプという人は、こともあろうか大統領になりたいとか言い出して、本当に大統領になった後でも、人前で平気でビックマックを頬張る。ビックマックはアメリカの誇りと固く信じる人々は、そんな姿に親近感がわくらしい。
まあ、味覚は人・国それぞれだから良いんだけど、ビッグマック好きがビッグマックインデックスなるものにまで高じると忌々しい。これは世界各国でのビッグマックの値段を比較して、その国の物価水準を推定する経済指標。いくらアメリカ人が世界一美味しい食べ物と誇ろうとも、日本人はあんな巨大で食べにくい物には食指は伸びないから、値段は米国より安い。ただでさえ、各国対比で日本の物価が安くなって苦労しているのに、ビッグマックインデックスだと、日本の物価は、より下振れして見える。迷惑この上ない。
さて、コーヒーの話である。アメリカにはアメリカンコーヒーというものは存在しない。アメリカのコーヒーは日本のアメリカンとは違う。彼らが飲むのはロバスタ種だ。日本人もヨーロッパ人もアラビカ種を飲む。安いロバスタ種は缶コーヒー、インスタントコーヒーの原料となる。なんとアメリカ人はそのロバスタ種をドリップして飲む。大きな缶に挽いた粉が入ってスーパーで安価で売っている。浅煎りで薄めにたくさん抽出する。安くて大量に作れる。なにせ量が多いことが美味しさの必要条件だ。私の元同僚は店でロバスタが出ると「コーヒーはこれでなきゃ」と大喜び。彼には申し訳ないが、私にはまずい。
推測するに、日本人は米国人の飲むこの不思議なコーヒーを再現しようと、浅煎りにしたり、お湯で割ったりと、工夫したのが日本のアメリカンコーヒーの始まりではなかろうか。しかし、どんなに真似しようにも、日本の喫茶店のアメリカンは、どうしたって本場のアメリカのロバスタよりも美味しくなってしまう。なかなか、アメリカ人の域には達しない。
しかし、80年代からスターバックスが急成長した。アラビカ深煎りを提供することで、ヨーロッパ人はロバスタ種を飲まないことを米国人に啓蒙した。欧州コンプレックスを刺激し、人々をあっと言わせた。爆発的にヒットして、会社は急成長した。
それとは別に、ほぼ時期を合わせて、スペシャリティーコーヒーも認知されてきた。渡米時にはアメリカのコーヒーに絶望したものだが、年々美味しくなった。
ところで、ホテル・レストラン業界の友人から聞いたところによると、米国はどの町でもマクドナルドとロバスタコーヒーが王道だが、レストランを展開する際には、シアトルとハワイは他の町とは違うアプローチが必要だという。そこは日系人を含むアジアからの移民が多い歴史を持つので、異なる味覚を持っている。住民にアジア系が多いし、食材を提供する近郊農家にもアジア系が多い。だから、他の都市と異なった味覚を住民が持つのだそうだ。
そういえば、ロバスタ種を平気で飲む米国に、欧州人はアラビカ種を飲むと啓蒙したスターバックスはシアトルで受け入れられた。また、ハワイにはアラビカ種の本流ティピカ種を生産するコナがある。今ではアラビカ種は市民権を確立した。都市部ではスペシャリティー・コーヒーという市場まで生まれた。それがシアトルとハワイという、米国の食文化の特異点が源流となっているのは単なる偶然だろうか。
前置きが長くなった。いよいよ本題である。
そんな味覚の持ち主であるアメリカ人ではあるが、スペシャリティーコーヒーがアメリカ生まれだからという理由で軽んじてはいけない。SCAのカッピングプロトコールには画期的な意味がある。それは、焙煎や抽出の差を排除することによって、生豆の価値を評価しようとする。そこには丁寧に生産されたコーヒーに高い点数を与える思想がある。農園で働く人々を評価する。
きっと多くの日本人は、コーヒーというと産地と品種、ツウになると標高や土壌などを思い浮かべるだろう。乾燥方法にいたって、何となく人の気配がするが、畑で働く人々の事など、頭からスッポリ抜け落ちているに違いない。生豆とそれを作る農家にスポットを当てたのがスペシャリティーコーヒーの真価であり、カップやロゴがスタイリッシュだとか、目の前で淹れてるパフォーマンスがカッコイイという事ではない。
加えて、私はスペシャリティーコーヒーが若者に受ける理由がもう一つあると想像する。
東西冷戦終了後、世界中で自由主義・資本主義陣営の影響力が強まるなか、同時にIT革命が起こり、人・物・金・情報が国境を越えて移動する時代となった。コーヒー生産国を含め、世界はものすごい勢いで経済発展を遂げた。途上国にドンドン商売を取られ、この三十年間経済成長ゼロの日本にいると見えづらいだけだ。
途上国においても、アフリカの貧困率はいまだ高いが、アジア・中南米の貧困層は大幅に底上げされた。しかし、経済成長をすると、その恩恵にあずかる者と取り残される者がでる。富裕層の成長率の方が速いので、格差は拡大する一方だ。
そのうえ、コーヒー生産地は途上国内でも山間部の最貧地域の場合が多い。その国の主な民族とは異なる少数民族の地だったりする。少数民族問題が絡むと問題は複雑だ。国全体が豊かになろうとも、彼らは経済発展から取り残されやすい。
しかし、遂に、グローバル経済は国境や政治体制を越え、人・物・金・情報の壁を取り払い、山間部のコーヒー生産地にまで達した。コーヒー生産者と消費者を直に結び、スペシャリティーコーヒーという概念を生んだ。
スペシャリティーコーヒーの売りの一つはトレーサビリティー。つまり、生産者の顔が見える。アメリカのリベラルな若者にとって、スペシャリティーコーヒーは、山間部の成長から取り残されがちな生産者との直接的な接点を感じさせる。コーヒーを飲めば、少数民族の生活向上に繋がると感じさせる魅力がある。(実体はそんなに単純ではないが。)
古くから、コーヒーは南北問題の象徴、植民地時代のプランテーション方式による奴隷作物の代表だった。奴隷制が廃止された後でも、プランテーション方式は支配層が貧困層を搾取する体制の象徴であった。つまり、コーヒーは古い時代の古い体制を支え、人々を飢餓に追いやる輸出商品作物。貧困の元凶だった。
スペシャリティーコーヒーはコーヒーをその地位から解き放つ可能性を提示した。そこがカッコよく、ヒップな点だ。スペシャリティーコーヒーはリベラルな飲み物なのだ。しかも、数量が少ないので、大資本が大量に扱える代物ではない。小規模なプレーヤーによる手作り感が、リベラルな若者には魅力だ。
昔はコーヒーは国家に管理され、生産者に質の良いコーヒーを作るインセンティブはなかった。今はコーヒーが自由に取引され、質の良いコーヒーを作れば、消費国のバイヤーが山奥までやってきて、市場価格よりも高く買ってくれる。しかも、プランテーション方式で生産されたコーヒーよりも、国家管理で生産されたコーヒーよりも、大資本が流通を支配するコーヒーよりも美味しいことが、リベラルの勝利感を醸し出す。植民地的経営、国家管理体制、大資本による流通支配では出せなかった味だ。
それがアメリカの若者の味覚の琴線に触れた。だから、SCAの年次総会には、ああいう雰囲気のああいう人々が集まるのだ。なんだか、大学の学園祭、あるいはサークル活動の延長のようなノリだ。そして、大資本が参入するとシラケる。そういう素人っぽい手作り感とリベラルな熱量、現代のフラワーチャイルドっぽい雰囲気が、前述の「SCA基準はコーヒーの好みの偏った人々が作ったから」と感じさせる一因かもしれない。
欧米の若者はリベラルの味を感じる感覚器官が発達していて、スペシャリティーコーヒーに甘・塩・酸・苦・旨に続く第六味を感じているのだ。
2022年6月 山岸秀彰