農園便り

2020年9月1日

コーヒー2050年問題

「コーヒーの2050年問題」なる言葉を耳にする。地球温暖化で2050年には栽培可能な耕地が50%も減少してコーヒーが飲めなくなるから問題だという話。

なんだか違和感を感じる。ことわっておくが、私は温暖化懐疑派ではない。また、温暖化問題をコーヒーという身近な日常に落とし込んで、正義を振りかざす「意識高い系」の態度が鼻に付くという訳でもない。私の違和感は「あんた、そんな将来にまで、まだ彼らにコーヒーを摘ませる気か」という事である。

一説によると、世界で3000万人がコーヒーを摘んでいる。日本人でこの仕事ができる人はまずいない。不安定な季節労働。劣悪な住環境。一日数ドルの低賃金。重いバスケットを腰に付けての重労働。私の日本からの友人で3日以上、体がもった人はいない。

こんな環境でなければ、コーヒーが一杯100円はありえない。コーヒーピッカーだって、好きでやっている訳ではない。途上国の、さらに最貧の山間部の人々が止む無く換金作物を手掛けているだけだ。そりゃ、日本のテレビ局が取材に来れば、幸せそうに笑顔でコーヒーを摘んでみせるさ。でも、彼らだって、コーヒーなんか摘むより、エアコンの効いたコンビニで「Irashaimase~」とコーヒーを売る側になりたい。何倍も稼げる。あわよくば、コンビニでコーヒーを買う側の人間になりたい。豊かになりたいと思っている。

100年前(ほんの4世代前)の日本やアメリカは国民の大多数が農民だった。生産性が低い農業から生産性の高い工業・サービス業へ労働力が移転して経済成長を遂げた。農業の生産性も上がった。昔は人口の8割の農民が国民を養っていたのが、今は農民は2~3%程度。それで養える。中国は改革開放後40年。この道筋の半分くらい(農民人口が半減)、たった1~2世代で驚異的な発展を示した。

コーヒー生産国は、いずれこの発展の道筋をたどる。これまでは、山奥にコーヒーを植えて、地元民に職を与えることで生活が改善できた。コーヒー業界は我々がコーヒーを飲むとき、それが生産国の人々を助けているというストーリーを伝える。どれだけ過酷な労働を強いているかは抜きにして、美談として伝えられる。今までは素晴らしい試みだ。しかし、そのノリの延長で、「コーヒーの2050年問題」は、30年後(今のピッカーの子供や孫たちの時代)も、彼らをコーヒー畑に縛り付けておくことに何の疑問を持っていないように聞こえる。

確かに、経済発展と環境保護はしばしば対立する。温暖化を食い止めるために、経済発展のあり方は工夫が必要だ。でも、30年後も、我々がプラスチック容器に入った冷たいフラペチーノをストローで吸い上げる快感を味わいたいがために、彼らを雨のコーヒー畑に濡れネズミにさらし続けるとしたら、それは悲しい未来だと思う。

過去30年間、日本以外の世界は経済成長した。成長は続くだろう。コーヒー生産国も発展が続く。それが自立的か、米中経済に従属する形なのかは分からない。それは30年後よりも先かもしれないが、きっと、彼らの孫、ひ孫の時代には、貧しい山奥から都会へ出る。山奥に留まる人も、今の値段や労働環境では絶対にコーヒーを摘んでくれない。

安いコーヒーを飲みたければ、手摘みよりも何万倍も効率的なブラジルの機械摘みコーヒーを飲めばよい。しかし、美味しいコーヒーを飲みたければ丁寧に健康な完熟実だけを摘む必要がある。(写真の数字、左から、2が完熟で摘みごろ、0は2週間早い、5は1カ月早い、0はそれ以上早い、最後の?は過熟。)美味しさに最も貢献しているピッカーの過酷な労働に対し、もっと賃金を支払ってもバチは当たらない。さもなくば、2050年には美味しいコーヒーを飲めなくなる。

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2020/09/01   yamagishicoffee