コナコーヒー農園便り 2015年6月号
SCAA(Specialty Coffee Association of America)はコーヒー豆の質を評価するための基準を設けている。その評価項目には、香り、均質性、クリーンカップ、甘さ、風味、酸味、こく、後味、バランス、全体評価などがある。それぞれの項目を点数化し、それを足し合わせて総合評価とする。
コーヒーは農産物だから、産地・気候によって味が異なる。実に多様だ。SCAAの評価基準は多様な特徴を評価するのに役立つ。客観的な基準を作り、共通の言語を確立して、近年のサードウェーブの隆盛に貢献した。しかし、生産者である私は、この基準には違和感を覚える。なぜなら、クリーンカップが多くの項目の中の一つとして扱われているから。私はクリーンカップを他の項目よりも、重要な項目と考えている。
クリーンとは異臭がない上に、渋み、えぐ味、苦味などの雑味がないこと。世間にはコーヒーの飲めない人、砂糖・ミルクなしでは飲めない人が多い。これは、大抵は雑味が強い(クリーンでない)からだ。他の評価項目、つまり、香り、酸味、バランス等々が劣るから飲めない訳ではない。正しく育てたコーヒーは雑味がない。さわやかで透明感があり、ブラックでも飲みやすい。ゴクゴクと飲める。これだけ多くの人をコーヒーから遠ざけている雑味を表す指標が他の項目と同等に扱われるのはどうしたことか。
雑味の強いコーヒーを飲むと、歯を磨きたくなる感覚が口の中に残る。煙草を吸うと、口の中に嫌な渋みが残るのと似た感じだ(ちなみに、私は25年前に渡米を機に禁煙した)。私は学生時代から、粋がってブラックで飲んだ。コーヒーに砂糖やクリームを入れるなんて味覚がお子様なのだとさえ思っていた。今にして思えばとんでもない。雑味だらけのコーヒーが一般的だったのだ。砂糖やクリームを入れる人こそ、まっとうな味覚の持ち主だ。最近は良質のコーヒーが浸透しつつあるが、まだまだ、砂糖・ミルクなしでは、とても飲めない雑味の強いコーヒーが巷に溢れているのは残念なことだ。
そして、クリーンカップこそが、農家がいかに上質のコーヒーを作ろうと努力しているかを表す指標だ。他の評価項目は、畑の立地条件、その年の気象条件に左右される。お天道様のご機嫌しだいで味が変わる。しかし、クリーンカップはそういった自然環境頼みの項目とは一線を画す。コーヒーを健康に育て、健康な実だけを丁寧に収穫し、きれいに乾燥させる事がクリーンカップへの鍵だ。農家の努力の結晶だ。
なかでも、重要なのは収穫。しかし、収穫は殆どの産地で、季節労働者か機械が行っている。農園主が自ら収穫をする農園は稀だ。それは、コーヒー摘みが肉体的、精神的に辛いからだ。コナの収穫の主な担い手はメキシコからの移民。極端な例では、コナの農園ではメキシコ人が摘み、メキシコの農園ではグアテマラ人が摘み、グアテマラの農園ではホンジュラス人が摘む。誰もコーヒーなんか摘みたくない。
季節労働者は摘んだ重量で賃金を払われるから、きれいに摘むインセンティブは働かない。クリーンカップは、かくも不安定な構造の上に成り立っている。だから、クリーンなコーヒーは珍しい。ゆえに、多くの評価項目の1つに格下げしないと、多くのスペシャリティーコーヒーが足きりされる。これでは商売にならない。
うちでは農園主の我々が主になってコーヒーを摘む。クリーンなコーヒーを作りたいから。ここ数年、コーヒー摘みばかりしているから、ゴルフの調子が悪い。村の長老、87歳のモーリス木村さんにさえ笑われる惨状だ。実に嘆かわしいが、モーリスさんは、うちのコーヒーだけは褒めてくれるから良しとしよう。