農園便り

2022年07月1日

農園便り最終号

先週、母が突然他界した。40年前に父を亡くし我が家は困窮した。それでも、母は私を大学へ行かせてくれた。あの頃の母を思い出すと涙がでる。私は今月で60歳。先月、母と妹から赤いちゃんちゃんこが送られてきたが、着て見せることはかなわなかった。

 

さて、毎月の始めに、このA4サイズの農園便りを書き始めたのは2012年7月。ちょうど10年になる。我ながらよくも120話も恥をさらしたものだ。ほとんどが愚痴だが、それなりに農家の視点からコーヒーを語ったつもりだ。10年を区切りに、今回でこの農園便りは最終回といたしたい。(雑誌「珈琲と文化」のエッセイは暫く継続)

 

大学を出て、人並みに金が欲しくて、日本の金融機関へ就職した。NY支店の頃、米国投資銀行の幹部との世間話で、今後はこういう種類の投資が流行ると話したら、それなら、うちへ来てそれをやらないかと誘われて転職した。アメリカ資本主義の神髄を体験できた。新規事業は紆余曲折だったが、そこそこ軌道に乗った。Managing Directorにも昇進した。そして、キャリアの絶頂で癌を宣告された。手術は痛かった。

 

心を入れ替えた。貧しい頃の願いは叶い金は貯まったが、使う前に死んだら元も子もない。それまで育てたビジネスとチームを捨てるのは辛かったが、体制を整えてリタイアした。それでも44歳でリタイアできたのは、いかにもアメリカらしい。

 

休暇で何度か訪れたハワイ島コナに魅了され、移住した。ゴルフやスキューバダイビング。それに、明治の日本がここに取り残されたような日系人社会があり、義理堅い人々に出会った。たまたま買った家にコーヒー畑が付いていたことから、コーヒー栽培を始めた。職場で飲むコーヒーは世界経済の原動力。それがこのように作られるとは知らなかった。それどころか、自分は何も知らないことに愕然とした。コーヒー栽培のことは一から勉強して多少は学んだが、トラックや農機具など絶対に自分で作れない。軍手や長靴だって作れない。剪定ばさみにも、それを作る職人の技がある。世界は英知と技術に溢れている。金融の知識ぐらいでこんなに早くリタイアして申し訳ない。

 

色々な人の英知と技術が連なってコーヒーが飲める。そして、その中で、美味しいコーヒーのためには、世界に3千万人いると推定されるコーヒーを摘む人(ピッカー)が最も重要と気が付いた。それなのに、彼らの収入は最も低い。構造的におかしい。

 

ピッカーは辛い仕事だ。コーヒーサプライチェーンの最下層。たとえは難しいが、日本の農村で働く外国人研修生の下の下のぐらいの階層。私の学生時代より貧しい。

 

コーヒーの価値の源泉がピッカーならば、単なる農園主ではだめ。自らピッカーになった。彼らと同じように摘み、誰よりもきれいに摘もうと努力した。それが自慢だったし、他のコナコーヒーとは一味違った。しかし、10年以上続けたら腰椎が潰れた。やはり大変な仕事だと身をもって理解できた。残念ながら、昨年から生産量を自家消費分に絞った。

 

赤字の道楽だが、自分の時間と労力のほとんどをつぎ込んだ。一般的なコナコーヒー同様の価格で売ったから高い。諸経費の高いハワイだからご勘弁いただきたい。ただ10年以上もやれたのは、こんな道楽に付き合ってくれるお客様あってのこと。感謝したい。

 

貧困から抜け出たくて就職した。終身雇用制度という日本独特の奇習のもとで働いたのは興味深い経験だった。ウォール街に転じ、世界中から集まる人材としのぎを削る高揚感も味わえた。でも、何もかもが違う農家となり、ピッカーという対極の身分で生きたのは、なによりも愉快だった。日本のサラリーマン社会を飛び出してよかった。早くリタイアして良かった。さて、人生百年時代が到来するそうだ。残り40年間、何をしようかな。

 

10年間、ご愛読ありがとございました。           

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2022/07/01   yamagishicoffee