アメリカ人の味覚(その2リベラルの味)
先月号で、「SCA (Specialty Coffee Association) 基準はコーヒーの好みの偏った人々が作った」との批判を耳にしたと述べた。私なりの答えとして、生豆とそれを作る農家にスポットを当てたのがスペシャリティーコーヒーの真価だと述べた。農家が良い仕事をしたコーヒーは美味しいという概念を生んだ。今回は、それ以外にもスペシャリティーコーヒーが人々、特に若者に受ける理由について。
東西冷戦終了後、自由主義・資本主義発展と通信手段の発達で、人・物・金・情報が国境を越えて移動し、コーヒー生産国を含め、世界はものすごい勢いで経済発展を遂げた。この30年間経済成長ゼロの日本にいると見えづらいだけだ。
途上国においても、アフリカの貧困率はいまだ高いが、アジア・中南米の貧困層は大幅に底上げされた。とはいえ、富裕層の成長率の方が速いので、格差は拡大する。そのうえ、コーヒー生産地は途上国内でも山間部の最貧地域の場合が多い。少数民族の地だったりする。少数民族問題が絡むと問題は複雑だ。国が豊かになろうとも、彼らは経済発展から取り残されやすい。
しかし、遂に、グローバル経済は国境や政治体制を越え、人・物・金・情報の壁を取り払い、山間部のコーヒー生産地にまで達した。コーヒー生産者と消費者を直に結び、スペシャリティーコーヒーという概念を生んだ。
スペシャリティーコーヒーの売りの一つはトレーサビリティー。生産者の顔が見える気がする。アメリカのリベラルな若者にとって、スペシャリティーコーヒーは、山間部の成長から取り残されがちな生産者との直接的な接点を感じさせる。現実は厳しいものの、コーヒーを飲めば、生産者の生活向上に繋がると感じさせる魅力がある。
古くから、コーヒーは消費国での繁栄の象徴だったが、同時に、南北問題の象徴、植民地時代のプランテーション方式による奴隷作物の代表だった。奴隷制廃止後も、支配層はプランテーション方式で貧困層を搾取し続けた。コーヒーは古い時代の古い体制を支え、人々を飢餓に追いやる輸出商品作物。貧困の元凶だった。
スペシャリティーコーヒーはコーヒーをその地位から解き放つ可能性を提示した。そこがカッコよく、ヒップな点だ。スペシャリティーコーヒーはリベラルな飲み物なのだ。しかも、数量が少ないので、大資本が大量に扱える物ではない。小規模なプレーヤーによる手作り感が、リベラルな若者には魅力だ。
昔はコーヒーは国家に管理され、生産者に質の良いコーヒーを作るインセンティブはなかった。今はコーヒーが自由に取引され、質の良いコーヒーを作れば、消費国のバイヤーが山奥までやってきて、市場価格よりも高く買ってくれる。しかも、プランテーション方式で生産されたコーヒーよりも、国家管理で生産されたコーヒーよりも、大資本が流通を支配するコーヒーよりも美味しいことが、リベラルの勝利感を醸し出す。植民地的経営、国家管理体制、大資本による流通支配では出せなかった味だ。
それがアメリカの若者の味覚の琴線に触れた。だから、SCAの年次総会には、ああいう雰囲気のああいう人々が集まるのだ。なんだか、大学の学園祭やサークル活動の延長のようなノリだ。そして、大資本が参入するとシラケる。そういう素人っぽい手作り感とリベラルな熱量が、前述の「SCA基準はコーヒーの好みの偏った人々が作ったから」と感じさせる一因かもしれない。
欧米の若者はリベラルの味を感じる感覚器官が発達していて、スペシャリティーコーヒーに甘・塩・酸・苦・旨に続く第六味を感じているのだ。