農園便り

2020年11月2日

美味しいとは

美味しいとは何か。これまでの人生で一番おいしかったものは牛乳とあんぱん。私の母校の都立立川高校は一年の夏に臨海教室に行く。最終日には全員で隊列を組んで遠泳をする。最初は泳げない同級生も4日間の猛特訓で上達し、泳げる同輩に囲まれ励まし合いながら完泳する。その連帯感が感動的だ。皆で声を合わせて掛け声を掛けながら何時間も泳いだので喉はカラカラ。おまけに口の中は塩水だらけ。砂浜に上がると、牛乳とあんぱんが振る舞われる。その甘いこと。牛乳が甘くて脂が濃厚。あれほど旨いものには後にも先にも出会ったことはない。

 その瞬間は遠泳を終えた達成感と疲労感に加え、塩漬けの体内への突然の甘みと乳脂肪分の侵入により、脳内は喜びに満ち溢れた。牛乳がこんなに美味しいことを知った驚きも加わり、感動を覚えた。

そんな私に対し、グルメな大人が、そんなその辺で売っているありふれた牛乳よりも、どこどこ牧場の素晴らしい環境で育てた健康な乳牛に極上の餌を与えた、無調整、無殺菌の牛乳の方がはるかに美味しいなどと言ったところで、全く意味はない。牛乳を飲んだ瞬間、私の脳内は幸福ホルモンで満たされた。美味しいとは、脳が喜ぶ個人的な経験だ。

私が思うに、苦いコーヒーの好きな人の脳内にも、似たようなことが起きている。コーヒーは一種の薬物。子供のうちは苦いコーヒーが飲めない。つまり、ホモサピエンスにとって、苦いコーヒーは美味しくない。しかし飲み続けると、カフェイン効果で覚醒し、気持ちが良くなることを脳が覚える。すると、脳は苦味と覚醒をセットで覚え、初めは不快だった苦いコーヒーなのに、やがて快感を得るようになる。人々はこの好みの変化の矛盾を「大人の味覚」とか「食文化」と整理して納得する。

美味しいとは、口内の心地よい感覚、脳が喜んでいる状態を意味する。苦いコーヒーを飲んで気持ちが良ければ、それはそれで良い。なにも、お前が気持ち良いのは脳が薬物に騙されているからだと、他人の脳内に土足で踏み込んでも意味はない。

ビールも同じ。子供の頃は、大人はどうしてあんなに苦いものを飲むのか不思議だった。親戚が集まり宴たけなわになると、ビールを一口飲まされた。あまりの苦さに嫌な顔をすると親戚中がドーっとウケた。毎回飲まされるので辟易した。たまには、大の字に仰向けになって手足をバタバタさせて暴れてやろうかとも思ったが、子供の沽券に関わるので、とりあえず嫌な顔をし続けた。こんなものは大人になっても絶対飲むまいと思ったものだ。しかし、サラリーマン生活を重ねるうちに、とりあえずの一杯が、仕事で興奮した脳を鎮めることを覚えた。こうなるとビールなしには精神の平衡を保てない。ストレスと対峙できない。いつの間にかビールは美味しい飲み物となった。今では、ビールが私の脳をだましているなどとビールの悪口を言われたら、手足をバタバタさせて暴れちゃう。

コーヒー愛好家の間で、酸味派と苦味派の論争がある。酸味派は苦味は毒の危険信号だから人類は苦味を嫌うように進化したと主張する。苦味派は酸味や酸っぱさは腐敗の危険信号だらら人類の敵と主張する。しかし、所詮は好みの問題なので、たわいもない論争と見える。

では、本当にたわいもない議論だろうか。私は酸味派である。SCA(Specialty Coffee Assocation)のカッピング基準でも、酸味を積極的に評価する反面、苦味は減点要因。来月号ではこのことをもう少し掘り下げよう(続く)。

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2020/11/02   yamagishicoffee