農園便り

2017年10月27日

雑誌「珈琲と文化」2017年秋号の原稿

雑誌「珈琲と文化」の2017年秋号に拙稿が掲載されたので転載します。

 

前号ではコーヒーの収穫の担い手(ピッカー)の確保が難しいと書いた。移民排斥政策に加え失業率低下で人手不足なのでなおさらだ。今回は3年前に難儀した際の顛末。

その年の収穫シーズン初期の8~9月は友人のフィリピン人家族に手伝ってもらった。友人とはいえ、農園主とピッカーでは利害が異なる。農園主の私は良いコーヒーを作るのが目標。健康な完熟実だけを摘み、かつ、コーヒー畑の健康を保つような摘み方を求める。一方、ピッカーは摘んだ重さに応じて支払われる。たくさん摘めば儲かるので急いで摘もうとする。すると未熟実や過熟実などの欠陥豆が混入する。そこで、欠陥豆が混入しないよう丁寧に摘むようにお願いした。彼らの手間が増えて摘む量が減るが、重さ当たりの賃金を上げて、彼らが損をしないようにして理解を求めた。それでも、こちらの希望通りに摘んでもらうには、お互いの信頼関係が不可欠。彼らの畑を収穫する際には我々はタダで手伝い、信頼を得る努力を重ねた。

 ある日の午後、うちの畑に激しい雨が降った。全身びしょぬれ。長靴も水であふれ返り、体は寒さで震えた。それでも、彼らは文句を言わず、夕方まで摘んでくれた。ありがたいことだ。感謝のしるしに、帰りにワインを振舞い、その日は普段の倍の労賃を払った。だいぶ信頼を得てきたようだ。全幅の信頼を得る日はそう遠くないと喜びをかみしめた。

 その日は突然やってきた。普段は4~5人なのに12人も来た。親戚総出。抗癌治療で自宅療養中の人まで来た。しかも、笑顔で気持ちよく働いてくれた。普段は私がする雑用も進んで手伝ってくれた。これだ!私が求めていたものは。ついに彼らは私の目標を理解し、完璧な調和が訪れた。

 午後になると、突然、冷たい風が吹いてきた。一人が満面の笑顔で寄ってきて、「雨が降り始めたね」とささやいた。すると、大粒の雨が。濡れては気の毒。作業の中止を宣言した。だが、誰も止めない。全員が雨合羽を持参している。笑顔の謎が解けた。彼らは知っていたのだ、雨が降ることを。餌をついばむ鳥のような目をして、ひたすら摘み続けた。もちろん、倍の給料を期待して。

雨模様の日が続き、連日大勢が来た。作業が進み9月分の収穫もあと一息。すると、帰りがけに、もう明日からは自分たちの畑が忙しいので手伝えないと告げられた。仕方がない。翌日は妻と二人で摘んだ。数日ぶりにカラッと晴れた気持ちの良い日だった。

 

 10月中旬に入り、いよいよ収穫のピーク。赤く熟した実が鈴なり。日系人の村コナではこの状態をSakari(盛り)と呼ぶ。年の収穫量の半分はこの数週間に集中する。

 通常の年は標高の低いサウスコナが最初にSakariになり、徐々にノースコナに移り、さらに標高の高い畑に移っていく。それにつれて、ピッカーも南から北へ移動していく。コーヒーベルトの北端にあるうちの畑はいつも一番遅く、サウスコナよりも二ヶ月も遅くなる年もある。ところが、その年はサウスもノースもうちの畑も10月中旬に同時にSakariとなり、村全体でピッカーが足りなくなった。

 例のフィリピン人家族も自分らの畑で忙しい。ちょうど、あるメキシコ人が彼のチームを雇ってくれと頼んできた。これは渡りに船。約束の日にちを決めた。そして、約束の日の朝が来た。ついにSakariの収穫開始。この一ヶ月が勝負だ。朝から気合が入る。ところが、彼らは来なかった。連絡も取れない。たわわに赤く実ったコーヒー畑の真ん中に、私と妻はポツンと取り残された。とにかく摘まねば。この日から苦難の日々が始まった。

 2人でひたすら摘む。夜明けから日暮れまで12時間摘み続ける。昼食は10分。しかも、家まで駆け足。夜は作り置きしたカレーを毎日食べ、風呂に入ること3回。9時には倒れるように寝る。体じゅうが痛くて夜中に何度も目が覚める。手足もつる。近所の農園は夜中まで車のヘッドライトを照らして摘んでいるが、私の体力では無理だ。

知る限りのピッカーのグループに電話したが、どこも忙しい。知り合いの農園主達は、誰もがピッカー不足で悲鳴を上げている。お手上げだ。このままでは、実が過熟し発酵してしまう。我々の疲労は限界。2週間で体重も3キロ減った。もう力がでない。

妻が電話口で泣いて頼んで、やっと友人の農家から週末の3日間だけ3人のピッカーを貸りた。どうにか作業が進んだ。しかし、3日目にさらわれた。少し目を離した隙に、他の農園から法外な労賃で引き抜かれ、連れて行かれてしまった。大農園ではSakariの時期に摘み遅れて実を腐らせると、数百万円・数千万円の単位で損が出る。みな必死だ。

 急遽、カナダに住む妻の両親を呼び寄せた。時差ぼけの中、気の毒だが、着いた翌日から手伝ってもらった。しかし、ちょっと目を離すと、どこからともなく人が現れ、「見慣れぬ顔だな。どこのチームの人間だ?うちの畑で働かないか?いくら払えば来る?」と、両親までさらわれそうになった。末期的だ。アロハの精神はどこへいった?

 

 もう打つ手がない。すがる思いで、村の長老のモーリス・キムラさんに応援を頼んだ。御年89歳。日系人ゴルフ会の幹事。会のメンバーはコーヒー農園で育った日系三世が中心。平均年齢80歳以上だが、週2回のゴルフをこなす。皆すこぶる健康。三世の彼らには父祖のコーヒーは貧困の象徴。そこから抜け出すために必死で社会進出を果たし、今はリタイア生活を満喫中。子供の頃から散々苦労したので、二度とコーヒー摘みは御免だと日頃から笑い飛ばしている。その彼らに窮状を訴え応援を懇願した。あっさり断られた。逆に「だからコーヒーなんか止めとけと言っただろう」と説教を食らった。

 そこで一計。2袋(約90kg)を摘んだら、私の所属するプライベートコースでゴルフとランチとビール飲み放題の条件を彼らに提示した。すると、たちまち12人が集まった。

 約束の朝、薄暗いうちから彼らは来た。だが、畑への階段を下りるのを見て、嫌な予感がした。その年齢で転倒すると一大事。体を斜めに構え片足ずつ慎重に階段を下りてきた。やっぱり無理だ。危険すぎる。こんな溶岩だらけの斜面の畑に連れ出したのを後悔した。

 よたよたと坂を下りてくる。ラウハラの葉で編んだ収穫用バスケットを腰に付けてる。歴史博物館でしか見たことのないアンティーク物だ。転ばないか心配で、こちらにたどり着くまでの時間がとても長く感じられた。ところが、コーヒーの木に向かった途端、人が変わったように生き生きと摘みだした。しかも速い!

速いうえにきれいに摘む。きれいというのは、摘んだバスケットの中は赤く熟した実だけで未熟・過熟の実はなく、摘み終わった木には赤い実は残らず、地面には実が落ちていない状態。クリーンカップの秘訣だ。これまで、多くのピッカーを見てきたが、これほどきれいに摘む人々を見たことがない。中には、「コーヒー摘みは大学卒業以来だから60年ぶりだ」という人がいる。それでも素早くきれいに摘む。

彼らは子供時代に相当厳しく仕込まれたらしい。昔は家族総出で摘んだ。かつて、コナの小中高校は、コーヒーの収穫に合わせて、9月から11月を夏休みとしていた。子供たちは5歳になるとコーヒー摘みを手伝った。自分の畑だからきれいに摘んだ。雇われピッカーとは品質に対する本気度が違う。さわやかな酸味を誇るコナコーヒーの名声は彼らのきれいな摘み方によって築かれたのだ。

 子供の頃に覚えたことは、体が覚えている。見たところ、5歳から30歳までコーヒー摘みをして、その後40年間摘んでいない人の方が、30歳から始めて40年間摘み続けている人よりも、きれいに摘むのだ。

「この頃、神経痛に悩まされていたけど、久々にコーヒーを摘むと体調もいいなぁ。体がコーヒー摘み用にできているのかなぁ。ワハハハハー」とビール片手に帰っていった。お陰で、何とか苦難の4週間は乗り切れた。この村には、まだまだ才能が眠っている。

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2017/10/27   yamagishicoffee