雑誌「珈琲と文化」に拙稿「クリーンカップ至上主義」が掲載されたので転載します。
私にとってコーヒーで一番大事なのはクリーンカップである。それを目指して栽培している。そして、消費国でクリーンカップの理解が浸透することを切に願う。さすれば、コーヒー業界の健全な発展に資するとともに、産地の人々の生活改善に繋がると思う。
SCAA(Specialty Coffee Association of America)はコーヒー豆の質を評価するための基準を設けている。その評価項目には、香り、風味、酸味、後味、こく、均質性、クリーンカップ、甘さ、バランス、全体評価がある。それぞれの項目を点数化し、それを足し合わせて総合評価とする。コーヒーは農産物だから、産地・気候によって味が異なる。実に多様だ。SCAAの評価基準は多様な特徴を評価するのに役立つ。客観的な基準を作り、近年のサードウェーブの隆盛に貢献した。しかし、私にはクリーンカップへの比重が物足りなく感じる。
SCAA基準だとクリーンカップは10項目の一つにすぎず、かつ、カビ臭などコーヒー以外の物に由来する香味があった場合に減点する項目。これだと大抵のスペシャリティーコーヒーは10点満点となる。
一方、私にとってクリーンカップとはカップ一杯を30分位かけてゆっくり飲んでも、好ましい余韻が持続し、苦みや渋みやえぐみを感じないクリーンなコーヒーだ。しかし、複数のコーヒーを次から次へと吸い込んで数秒で吐き出すことを繰り返すカッピングでは、時間をかけて飲んで雑味が累積する嫌な感覚を感知するのは難しい。たとえ私がSCAA基準でカッピングをして高い点数を付けても、翌朝30分かけてゆっくり飲んでがっかりすることは多々ある。コーヒーを飲むのとカッピングするのは別物だ。
世間にはコーヒーの飲めない人、砂糖・クリームなしでは飲めない人が多い。大抵は雑味が強い(クリーンでない)からだ。SCAAの他の評価項目、つまり、香り、酸味、バランス等々が劣るから飲めない訳ではない。雑味こそが多くの人をコーヒーから遠ざけている要因だ。コーヒーを評価する際にもっと重視されるべきだと思う。
昔のコーヒーは雑味が強かった。私は学生時代からブラックで飲んだ。眉間に皺を寄せながらツウぶってすすった。砂糖やクリームを入れるなんて嗜好がお子様だと粋がっていた。今にして思えば、相当な痩せ我慢だ。雑味だらけのコーヒーには砂糖やクリームを入れる人こそ、まっとうな味覚の持ち主だ。最近は良質のコーヒーが浸透しつつあるが、まだまだ、砂糖・クリームなしでは飲めないコーヒーが巷に溢れている。
正しく育て、きれいに収穫したコーヒーは雑味がない。さわやかで透明感があり、ブラックでも飲みやすい。ゴクゴクと飲める。クリーンカップこそが、農家がいかに上質のコーヒーを作ろうと努力しているかを表す指標だ。
SCAAの他の評価項目は、畑の立地条件、その年の気象条件に左右される。お天道様のご機嫌しだい。しかし、クリーンカップはそういった自然環境頼みの項目とは一線を画す。コーヒーを健康に育て、健康な実だけを丁寧に収穫し、きれいに乾燥させる事がクリーンカップへの鍵。農家の努力の結晶だ。
なかでも、重要なのは収穫。ブドウなどの他の農産物とは違い、コーヒーは同じ枝でも熟度が揃わない。よって、未熟、過熟の実を除けて、完熟した実だけを選んで摘む。
収穫は3週間以内に畑を一周して同じ樹に戻ってくる。これを3~4カ月かけて何周もする。
機械で摘み生産コストを格段に引き下げる産地もあるが、それだと好ましくない豆も混じる。そもそも、コーヒーに適した土地柄、すなわち、日陰樹のある山の斜面では収穫用の機械は使えない。高い品質を維持するには、人間が手で選り分けながら摘むしかない。その担い手は季節労働者(ピッカー)だ。
うちの農園のように農園主が自分で摘む小さな農園は別にして、大きな農園だと、年間の生産コストの6~7割は収穫にかかる労賃。農園主にとっては収穫コストをいかに下げるかが経営の鍵。労賃は圧縮される。
通常、ピッカーへは摘んだ重量に応じて賃金を払う。ピッカーからすれば、低賃金にあえぐなか、多く摘めば摘むほど収入が増えるので、なるべく早く摘もうとする。きれいに摘むインセンティブは働かない。
一説ではピッカーは世界に3000万人。さらに、コーヒーは農園、収穫、乾燥、精選、港、輸送、商社、問屋、焙煎、小売店、コーヒー店やレストラン、缶コーヒー、その他コーヒー関連商品など多くの人の手を経る。全世界でコーヒーに関連する従事者は1億人に達するらしい。世界人口72億人だから、72人に1人はコーヒー関連。驚くべき産物だ。
その大勢の中で、品質にとって最も重要なのはピッカー。3000万人という膨大な人数が手作業でこなす。とても労働集約的な農産物で、その作業の善し悪しが品質に影響する。
ところが、ピッカーの労賃は微々たる額だ。ハワイで労働者を雇うと最低でも一人一日120ドル程度。さすがはアメリカ。人件費は高い。しかし、中米では一日3ドル程度の場合もある。アフリカにはもっと安い国もある。これで丁寧に摘めと要求するのは酷だ。
仮に、ピッカーが一日200ポンド(約90キロ)の実を摘んで、3ドル(約300円)を稼いだとする。それを乾燥して生豆にして焙煎するとコーヒー1,200杯分だ。一杯当たり25銭(=300円/1200杯)がピッカーの懐の渡る勘定になる。喫茶店で飲むコーヒーが一杯500円とすると、25銭/500円=0.05%がピッカーの取り分。たったの0.05%!
「レギュラーコーヒー500円。手摘完熟最高級コーヒー800円」というのがあるとする。この差額は何だろう。たった25銭の部分がそのコーヒーのセールスポイント、付加価値の源泉、高級品としての価格設定の根拠なのに。「丁寧に摘んでくれたピッカーさんに、通常25銭のところ、なんと今回は特別に5倍の125銭をお支払いして、一杯501円!」とした方が、高級である理由が明確で分かりやすい。
1億人のコーヒー関連の従事者の中で、品質上最も重要な仕事をするピッカーの取り分が最も少ない。日本でコーヒーに関わるどの人よりも分け前が少ない。日本政府に至っては何もしないで消費税8%、ピッカーの160倍も稼ぐ。しかも、1億人の中でピッカーの仕事が肉体的に最も過酷だ。一日200ポンドのコーヒーを4ヶ月間も摘み続けるのがどれほど辛い作業か理解できる人は少ないだろう。最も過酷で、かつ、品質管理上、最も重要な部分に0.05%はお粗末だ。これが企業なら潰れる。「コーヒーだけにブラック企業です」などと笑って済む問題ではない。
コーヒー生豆はドル建てなので、値段は外国為替の影響を受ける。0.05%を外国為替に例えると、1ドル100円が100円05銭に振れた値。完全に誤差の範囲内だ。最も重要な仕事に誤差程度の報酬とはいかなることか。
消費国の関係者が産地へ視察に行って、赤だけをきれいに摘むよう「指導」したという話をよく耳にする。私などは、一杯25銭しか払わないで、よくそこまで言うなと感心する。ピッカーにすれば、「その程度じゃ、やってらんねーよ」というのが本音だろう。きれいに摘むのはそんなに易しくない。毎日摘んでいる私が言うのだから間違いない。
クリーンカップは、かくも不安定な構造の上に成り立っている。だから、クリーンなコーヒーは珍しい。いまだ多くの人がクリーンなコーヒーの何たるかを知らない。
コーヒーを南北問題の象徴として人道的議論をする以前に、コーヒー業界として品質の向上を求めるならば、品質の源泉であるピッカーへの分配を増やすべきだ。人道的観点からフェアートレードが注目される。「コーヒーを一杯飲んだら1円を産地へ送ります」。すばらしい試みだが、ピッカーの取り分が25銭から1円25銭に5倍に増えた話は聞かないし、第一、それでは、ピッカーにきれいに摘むインセンティブは働かない。
指導や人道的動機も大切だが、やっぱり人を動かすのは金だ。経済的合理性だ。まず、消費国でクリーンカップの理解が進むことが重要。すると人々はクリーンなコーヒーに高い値段を払うようになる。きれいに摘むピッカーの価値が上がる。きれいに摘むピッカーの収入が増える。摘み方で収入に違いがでることを体で理解できる。すると益々コーヒーの品質が上がる。クリーンカップはコーヒーの品質向上とピッカーの生活向上の鍵だ。