コナコーヒー農園便り 2015年7月号
先月号に記したとおり、コーヒーの評価において、私はクリーンカップ至上主義だ。クリーンでないから、人はコーヒーが飲めない。雑味が多いから砂糖やクリームを入れる。私は消費国でクリーンカップの理解が浸透することを切に願う。さすれば、コーヒー業界の健全な発展に資するとともに、産地の人々の生活改善に繋がると思う。
一説ではコーヒーは関連する従事者の数が最も多い産物らしい。農園、収穫、乾燥、精選、港、輸送、商社、問屋、焙煎、小売店、コーヒー店やレストラン、コーヒー関連商品など多くの人の手を経るが、クリーンカップの源泉は焙煎でも抽出でもない。コーヒーを健康に育て、きれいに収穫し、きれいに乾燥させることが鍵。中でも収穫が最も重要。
多くの産地でコーヒーを摘むのは一日数ドルで雇われた季節労働者。彼らに、きれいに摘むインセンティブはない。もし、きれいに摘んでくれれば、クリーンなコーヒーができる。だが、彼らの取り分は微々たる額だ。ハワイで労働者を雇うと最低でも一人一日120ドル程度。さすがはアメリカ。人件費は高い。ところが、中米では一日3ドル程度。
仮に、日当3ドル(約360円)の人が一日200ポンド(約90キロ)の実を摘んだとする。200ポンドの実からは約1,500杯のコーヒーが作れる。一杯当たり24銭がピッカーの懐の渡る勘定になる。喫茶店で一杯500円とすると、0.24/500=0.05%がピッカーの取り分。消費税8%の1/160だ。中には手摘み完熟などと解説が付くものもある。たった0.05%の部分がそのコーヒーの最大の特徴、セールスポイントなのだ。
数多のコーヒー関連の従事者の中で、品質上最も重要な仕事をするピッカーの取り分が最も少ない。しかも、ピッカーの仕事が肉体的に最も過酷だ。一日200ポンドのコーヒーを毎日5ヶ月間も摘み続けることがどれほど辛い作業か理解できる日本人は少ないだろう。コーヒーを南北問題の象徴として人道的議論をする以前に、コーヒー業界として品質の向上を求めるならば、最も過酷で、かつ、品質管理上、最も重要な部分に0.05%はお粗末だ。これが企業なら潰れる。
消費国の関係者が産地へ視察に行って、赤だけをきれいに摘むよう「指導」したという話をよく耳にする。一杯24銭しか払わないで、よくそこまで言うなと感心する。ピッカーにすれば、その程度じゃ、やってらんねーよ、というのが本音だろう。だって、私が一日120ドル(約14,400円)払っても、きれいに摘んでもらうのは難しい。
クリーンカップは、かくも不安定な構造の上に成り立っている。だから、クリーンなコーヒーは珍しい。ほとんどの人がクリーンなコーヒーの何たるかを知らない。
人道的観点からフェアートレードが注目される。「コーヒーを一杯飲んだら1円を産地へ送ります」。すばらしい試みだが、ピッカーの取り分が24銭から124銭に5倍に増えた話は聞かないし、第一、ピッカーにきれいに摘むインセンティブは働かない。
指導や人道的動機も大切だが、やっぱり人を動かすのは金だ。経済的合理性だ。まず、消費国でクリーンカップの理解が進むことが重要。すると人々はクリーンなコーヒーに高い値段を払うようになる。きれいに摘むピッカーの価値が上がる。きれいに摘むピッカーの収入が増える。摘み方で収入に違いがでることを体で理解できる。すると益々コーヒーの品質が上がる。クリーンカップはコーヒーの品質向上とピッカーの生活向上の鍵だ。