雑誌「珈琲と文化」1月号の拙稿を転載します。リン酸の実験をしたら大失敗だった話です。
Qグレーダー(コーヒーの鑑定士)の資格試験では、6種類の酸の官能が試される。すなわち、クエン酸、リンゴ酸、酢酸、乳酸、キナ酸、それにリン酸である。
クエン酸は柑橘系の鋭い酸味、リンゴ酸はリンゴのような丸い酸味、酢酸は酢のような酸、乳酸はコーヒーにコク(Body)を与え、キナ酸は苦味を与える。浅煎りだとクエン酸やリンゴ酸の酸味が強くでるが、焙煎が進むとクエン酸とリンゴ酸は減少し、乳酸とキナ酸は増加する。深煎りは酸味が減り、コクや苦味が増す。
一方、リン酸はそれ自体にはあまり酸味を感じない。Qグレーダーの講習会で教わったところによると、リン酸は、他の酸味を甘く、明るくする効果があるとのこと。試しにレモンのような酸味のアフリカのコーヒーにリン酸を加えたらマンゴーっぽくなった。なるほど、加工食品や清涼飲料の添加物にリン酸は多用される。実際に本稿を書きながら飲んでいるダイエットペプシの缶を見たら、成分にPhosphoric acid(リン酸)と表示されている。喫茶店のテーブルの砂糖の横にリン酸が置いていないのが不思議なくらいだ。
リン酸以外の有機酸はコーヒーの木が体内で生成する。健康に完熟した実は酸味がきれいだ。加えて、酢酸は収穫後の乾燥段階で発酵により生成される(最近流行りのセミナチュラルや酵母菌発酵)。これに対して、無機酸であるリン酸は植物体内では作られない。それどころか、肥料の三要素(窒素、リン酸、カリウム)のひとつ。リン酸は植物の成長に欠かせない栄養素である。根が土壌中から摂取し体内に運ばれる。リン酸は土壌中に十分に存在して、かつ、コーヒーの根が吸収できる形で存在しなければならない。
うちの畑の土壌検査をすると、コーヒーが必要とする量の五十年分以上のリン酸がある。ところが、コーヒーの葉の養分検査をするとリン酸が足りない。土壌中に大量のリン酸は存在するが、火山灰土壌の粘土に結合してしまい、植物の根がリン酸を吸収できない状態にある。火山灰土壌の典型的な弊害で、日本の歴史の中で、さんざん農民を苦しめてきた。火山灰土壌が不良土とされる所以だ。(火山灰土壌の不良性については、本誌の2020年夏号に書いた。)
ここまでを要約すると、リン酸は酸味を明るくするが、火山灰土壌のコナコーヒーにはリン酸が不足しがちである。
ところで、コーヒーは産地によりその香味が異なる。たとえ同じ品種でも産地により違う。不思議な植物だ。そこで考えた。酸味を決定する要因は標高や日中の温度差といわれるが、ひょっとして土壌の違いもその一因なのかもしれない。
たとえば、ひび割れ粘土質土壌という肥沃な土壌で育ったエチオピアのコーヒーを飲むと、とても明るい酸味のコーヒーに出会うことが多い。羨ましい。オキシソルという不毛の台地で育ったブラジルのコーヒーは酸味が弱い。火山灰土壌のコナはその中間。同様に、火山灰土壌の多い中米のコーヒーもマイルドな酸味なので、コーヒー業界では中米のコーヒーをマイルドというカテゴリーで呼ぶ。これは土壌中の吸収可能なリン酸の量に関係しているのではというアイデアが浮かんだ。これが本当なら世界的な大発見だ。コーヒー栽培に革命が起きる。このアイデアにゾクゾクした。
実験してみた。畑の一画にコーヒー二百本の実験区を作り、実験区A,B,C,Dの四つの区画に細分し、それぞれ異なる施肥をした。
A:通常の化学肥料を土に撒いた。
B:A+リン酸肥料を土に撒いた。
C:A+リン酸肥料を葉面散布した。
D:A+B+C(土と葉面両方)。
もし、世界各産地の土壌のリン酸の振る舞いが香味の違いの原因であれば、この実験のように人工的にリン酸量を調整することで、ABCDがまるで違う産地と感じられるほど、酸味に変化が出るのではなかろうか。このアイデアにとりつかれ、一年間ワクワクしながらコーヒーの世話をした。なにせ、肥料の配合で味を自由にコントロールできれば革命的である。ブラジルの台地でもエチオピアのようなコーヒーが出来たら愉快この上ない。
いよいよ収穫の時期が来た。葉の養分テストをした。確かにAはリン酸が不足していたが、BCDには十分なリン酸があった。特にDは多かった。よしよし、目論見通り。
どのカップがどの実験区か私には分からないように、ブラインドでカッピングした。私の感触では、Dは一番酸味が綺麗。明るく透明感のある酸味だった。BCは少し劣るが、BとCの間の差はない。Aは酸味にすこし濁りがあった。
念のため、日を変えて三回カッピングをした。さらに、自分の焙煎器ではなく、他人に別の焙煎器で焙煎してもらいカッピングした。計四回のカッピングをした結果、BとCは区別がつかなかったが、DとAは四回とも言い当てることが出来た。点数もDが一番高く、Aが一番低かった。リン酸の効果が確かめられた瞬間だ。嬉しい。
しかし、その差は微妙でどれもコナコーヒーの範疇内で、とても他の産地と思えるほどの違いはなかった。
客観性を確保するために、知り合いの複数のQグレーダーにも鑑定を依頼した。ところが、その鑑定結果はバラバラだった。私と似た結果を出した人もいたが、全体的にはバラバラでその結果に何らの傾向や相関性はなかった。たぶん、私は実験の内容を熟知しているから、カッピングの際にリン酸を探しに行くので実験の趣旨に沿った結果を出せたのだろう。だが、他の人は実験内容を知らずに鑑定したので、この酸味の差異に着目する人はいなかった。それほど、その差は僅かだった。
この実験から考えられることは、決定的に栄養が不足しているならいざ知らず、たとえ土壌の欠点を補うような施肥を大量にしても、味に大した変化はない。コーヒーの香味は肥料で飴細工のように自由に変形させることはできない。土壌の種類も同様だろう。私が四回ともその差を認識できたのであるから、多少の影響はあるのだろうが、おそらく、それは、リン酸が充分に行き渡って、コーヒーの木がより健康に育ち、このコーヒーのポテンシャルをより発揮できただけのことで、産地が違うと思わせるほどの質的な変化は起きなかった。やはり、酸味を決定するのは、広く一般に言われているように、標高や日中の気温差なのかもしれない。
火山灰土壌はその粘土がリン酸を結合するので、コーヒーの根がリン酸を吸収できない問題がある。今回はリン酸化学肥料を用いることで、微細ではあるものの、私なりの香味の改善に成功した。一方、火山灰土壌中に大量の有機物を投入して、腐植の量を増やせば、コーヒーの根は腐植を通じてリン酸を吸収できることから、必ずしも、リン酸化学肥料(窒素肥料は無限だが、リン酸の世界的な資源は有限)を多用せずとも、有機物の投入で、同様の目的を達成できるかもしれない。
なんのことはない、日本の農家のオジサンが、お茶の間向け情報番組で堆肥を使った土づくりの自慢をするのと同じことがハワイのコーヒーにも当てはまるだけのことだ。
一年間ワクワクしながら実験したが、結果的には、あ~あ、やっぱりなあ~、そんなうまい話ないよなあ~、となってしまった。
余談だが、我々のDNAはリン酸からできているし、歯や骨はリン酸カルシウムでできている。リンは人体に必須の栄養素である。しかし、過剰に摂取すると腎臓を傷めて老化を早めることが、近年分かってきたらしい。現代人は、肉の摂取量も増えたし、前述のように、加工食品や清涼飲料にはリン酸が添加されているので、必要量の何倍も摂取していて過剰。リン酸が添加された食品を控えるのが若さを保つ秘訣だそうだ。いやはや、リン酸を大量に与えたコーヒーを生産して、コーヒー愛好家の老化を促進せずにすんだ。めでたしめでたし。
2022年12月 山岸秀彰