農園便り

雑誌「珈琲と文化」2023年4月号 原稿

今般、星田編集長からのお誘いで、いなほ書房から「美味しいコーヒーを飲むために―栽培編―」を上梓した。十五年間コーヒー栽培をかじった程度で物申して恐縮だ。なにせ、十五回しか栽培経験がない。十五回といえば、年間のゴルフのラウンド数レベルで覚束ない。それでも勇気を奮って、コーヒー業界のプロや愛好家の皆様を対象に書いた。また、一般の方でも理解しやすいように平易に書いたつもりだ。
これまで、証券アナリストジャーナルに投資に関する論文や本誌のエッセーやらを書いたことはあるが、本の執筆は初めて。現役時代、ニューヨークでヘッジファンド業界にいた日本人は数人しかおらず、私は米国のヘッジファンド業界に最も詳しい日本人の一人だった。本を書けとの誘いはあったが、仕事が忙くて、そんな時間はなかった。本などというものは仕事の暇な人が書くものと思っていた。実際、ヘッジファンド関連の本は実務家から見ると的外れな記述が多かった。そして今、腰痛のためコーヒー栽培を縮小したので暇だ。いよいよ本を書いた。それも専門の金融ではなく、的外れなコーヒーに関して。
コーヒーに関する本は、コーヒーの販売業者や焙煎士やバリスタが書いたものが多い。焙煎や抽出の蘊蓄がならび、私にはチンプンカンプン。なにせ、私はコーヒーの焙煎・抽出はド素人である。よって、本書はこれまでのコーヒー本とは趣を異にする。自宅でコーヒーを楽しむ愛好家の役に立つ焙煎や抽出のコツなどは一切登場しない。
本書の主題は、美味しいコーヒーとはコーヒーの木を健康に育て、健康に完熟した実だけを丁寧に摘んだものというもの。コーヒーを健康に育てる農園主の姿勢も大切だが、それ以上に、丁寧に健康な完熟実だけを摘むピッカーの働きが重要ということだ。
我々が一杯のコーヒーを飲むまでには、何段階もの工程を経る。畑の開墾、苗木づくり、植え付け、剪定、水やり、施肥、土づくり、雑草処理、病害虫対策、収穫、精製、乾燥、保管、皮割り、サイズ・等級分け、欠陥豆の除去、袋詰め。そして、輸出手続き、輸送、通関。やっと生豆問屋から小売り業者の手に届き、皆さんの大好きな焙煎と抽出に至る。
川上から川下まで何十もの工程があるなかで、そのどれもが美味しいコーヒーに関わる。どの工程もいい加減に処理すると味が落ちる。確かに、どれも大切だが、とりわけ重要なのは収穫である。健康な完熟実を丁寧に摘み取ることに尽きる。これを怠ると、他の工程でどれだけ頑張っても挽回できない。
ピッカーは美味しさの源泉なのに、ピッカーの労働環境は劣悪だ。一杯のコーヒーを生産する諸工程のなかで、最も重要で重労働のピッカーへの報酬が最も低い。変だ。これが企業なら、こんなお粗末なクオリティーコントロールを採用する企業は倒産する。
健康な完熟実だけを摘んだコーヒーは、フルーティーでクリーンな味わいだ。甘味さえ感じる。逆に、乱暴に摘むと、未熟実や過熟実、あるいは、虫食いや栄養・水分不足の欠陥実などが混入する。すると雑味が増えて苦くなる。飲んだ後に口の中に苦味や渋みやえぐみが残る。健康なコーヒーは後味がスーっと心地よく消えていく雑味のないクリーンなコーヒーだ。
私はコーヒーを摘まない日は、朝二時間くらいコンピューターに向かう。ニュースを読んだり、金融市場を追いかける。朝に淹れたマグカップ一杯分のコーヒーを少しづつ飲む。私にとって美味しいコーヒーとは、何時間かけて飲んでも飲み疲れないもの。えぐみや渋みや苦味が口内に溜まっていくコーヒー、歯を磨きたくなるコーヒーは美味しくない。このクリーンな味わいはきれいな収穫の結果であり、ピッカーのおかげと力説したい。
もちろん、美味しさは人それぞれ。健康な完熟実だけを摘んだクリーンな味わいのコーヒーが美味しいとは、私の勝手な定義で、こだわりの美味しさは人によって違う。しかし、実は広く受け入れられた概念だ。その証拠に、たいていのコーヒー本は焙煎や抽出に関する蘊蓄が並べられても、結局は、良い生豆を仕入れるのが大切と書いてある。また、業者の宣伝には、産地から厳選した生豆を仕入れているという類のものが多い。そうした宣伝に定番なのは、真っ赤に完熟した実だけを集めた写真だ。おまけに、産地へ行って、完熟した実だけを摘むように指導したなどの武勇伝まである。さらに、焙煎前に生豆を手で選別して欠陥豆を取り除く喫茶店のマスターまでいる。
プロの間ではきれいに摘んだ豆が美味しいことは広く知られているようだ。しかし、良い生豆を生産する方法を論じた本や論文はほとんどない。本書ではそこに焦点を当てた。良質の生豆を生産するには、コーヒーの木を健康に育て、健康に完熟した実だけを丁寧に摘むことに尽きる。美味しいコーヒーとはピッカーが作るものだ。
日本のコーヒーショップでコーヒーを頂くと、お店の人が、コーヒーの特徴を土壌や気候や標高や乾燥方法などをあげながら興奮して説明してくれる。偉い。自分の感動を伝えたいという姿勢は素晴らしい。しかし、きれいに摘まなければ、その感動的な特徴も、せっかくの土壌も気候も標高も品種も乾燥方法も台無しだ。収穫は基本中の基本。まず、きれいに摘んだコーヒーの味を語ってくれ。生豆の仕入れ段階までは、きれいに摘んだ豆を要求しながら、客に出す段になると、やれ産地だ、品種だ、標高だ、乾燥方法だの説明ばかりで、最も重要なきれいに摘んだ豆の味を顧客に伝えようとする意志が希薄だ。
しかも、首を傾げたくなる「常識」が語られる。例えば「肥沃な火山灰土壌」というコーヒー業界の常套文句。火山灰土壌といえば、戦後に改良方法が確立する以前は、日本の農民をさんざん苦しめた不良土だ。ご先祖様は、その不良性を克服するために土の上に水を張って稲作をしてきた。そんな我々の歴史をすっ飛ばして「肥沃な火山灰土壌」って、日本語として変でしょ。そんなことより、きれいに摘んだコーヒーを語ってくれ。
さて、生産者にとって、コーヒーの先物価格200Cents/lb以上が持続可能な水準らしい。長らく低迷した相場は、本書を執筆中は200セントを超えていた。しかし、たとえ200セントを超えても、充分な収入ではないことを本の中で考察した。その後、残念ながら相場は再び200セントを割り込んだ。前途多難だ。
一方、市況と並んでコーヒー農家の頭痛の種はピッカー不足。しかも、ピッカーは美味しいコーヒーの主役なのに、待遇は悪い。それに加えて、近年の世界的な人手不足。それは一時的現象ではなく、途上国の経済発展で、山間部のコーヒー生産地から都市への労働者の移動は長期的な趨勢と思われる。私はピッカーが可哀そうだから何とかしろと、人道主義の話をしているのではない。ピッカーを正当に扱わないと、コーヒーをきれいに摘んでくれなくなって、消費者が美味しいコーヒーを飲めなくなるという話をしている。美味しいコーヒーは崖っぷちだ。
ピッカーは美味しさの源泉。世界的な人手不足とコーヒーの味は関連している。願わくば、消費者にきれいに収穫したクリーンな味わいをもっと理解してもらいたい。なぜなら、消費者がきれいに摘んだコーヒーを生産者に要求しなければ、人手不足ゆえ、きれいに摘んでくれなくなる。すると、美味しいコーヒーを飲めなくなってしまう。そのことを、コーヒー業界と愛好家の皆様に考えてもらいたいと思い本書を執筆した。腰椎が潰れるまで、十五年間ひたすらコーヒーを摘み続けた偽らざる感想である。この機会を与えてくれた星田編集長に感謝。是非ご一読を。そして、いなほ書房からベストセラーを。
2023年3月 山岸秀彰
2025/01/16   yamagishicoffee
山岸コーヒー農園は小規模ながら品質追求のコーヒー栽培をしています。
コナ・ルビーはクリーンな味わいのコーヒーです。
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