農園便り

雑誌「珈琲と文化」2020年4月号

これも、随分古い話ですが、季刊誌「珈琲と文化」2020年4月号に拙稿が掲載されたので、転載します。

私の人生で出会った金髪さんについてです。

実は、この号はいまだ私の手元には届いていません。コロナ騒動で日本からハワイへの飛行機が飛んでいないので、日本からの郵便物も届きません。いつになったら再開する事やら。

 

かつてニューヨークのメリルリンチ本社で顧客から預かった資金を運用する仕事をしていた。いわゆるヘッジファンド。オフィスはWorld Trade Centerの隣のビル。地下鉄Fulton駅を降りて、World Trade Centerの地下街を通り抜けてオフィスへ。運用成績の好調もあり、自信に満ち溢れて闊歩していた。

2001年9月11日、World Trade Centerが倒壊した。我々のビルは道を挟んでその隣。倒壊は免れたが、使用不能。翌日から1年間、ニュージャージー州プリンストンのオフィスに隣接する自社研修所へ疎開した。自宅からは往復7時間以上。通勤は無理だ。我々は月曜日から金曜日、時には土日も研修所に泊った。毎日、廊下でつながったオフィスに通った。テロの直後の2~3ヵ月間は誰もが興奮状態なので、唯ひたすら働いたが、初期の興奮状態がさめると、人々のストレスは極限に達した。テロ後に起きた炭疽菌郵送事件の発送元が研修所の近所の郵便局だったことも恐怖感を増した。

ストレス解消は食べることだけ。しかも毎日3食とも研修所内の高級レストラン。我々は毎日、シェフが目の前で取り分けてくれるローストビーフを食べ続けた。私も含め、グループの全員が男も女もブクブク太りだした。典型的なストレス太り。

状況改善を経営陣に訴えた。NYのオフィスは再開したが、既に我々のフロアーには別の部署が入った。違うビルでも良いから、早くNYへ戻りたい。第一、あんたらアメリカ人はローストビーフを毎日食べても平気かもしれないが、日本人の私は病気になると訴えたら、日本人は毎日寿司を喰わねえと早死にするらしいぜハハハッと、ジョークのネタにされた。それを聞きつけて、助っ人が現れた。隣のグループの私と同い年の英国人。ローストビーフ本場の英国出身の彼にはここのローストビーフは耐えられないと苦情に加わった。すると、だったらニューヨークステーキを注文しろ、脂がのって旨いぞと却下された。日英同盟はあっけなく敗退した。

ストレス限界の我々はヘッドハンターの格好の標的になった。何人もライバル企業に引き抜かれた。残った者に益々負担がかかる。歯を食いしばって働いた。ブラック企業とは日本的概念。アメリカの時給労働者は労働組合員で超過労働から保護されているが、我々プロフェッショナル(Exempt)は労働組合員ではない。成果主義なので就業時間という概念は希薄だし、休日出勤代も残業代もない。日々の労働時間が5時間だろうが20時間だろうが関係ない。結果が勝負だ。何人も辞めたので、人が足りない。残業以外に方法がない。そもそも、会社内の研修所に寝泊まりしているのだから制限はない。自分のビジネスを守り、成果を出すため、週100時間働らこうが自己の裁量と責任だ。それが嫌なら、仲間を見限って転職するのみだ。夜10時以降はビル全体の明かりは消されるが、我々の一画だけは遅くまでつけてもらった。

当時、アメリカ経済はリセッション入り。ただでさえ運用が難しい局面なのに、人手不足で運用は困難を極めた。我々はもう限界だった。

なにせ、本社ビルが使用不能になったのだから、会社は火の車。コストカットは至上命題。会社は我々をコストの安いプリンストンのオフィスに留め置こうとしたが、なんとか地元のNYのオフィスへ帰りたい。このままなら、グループ全員で他社へ移籍すると経営陣に訴え、1年後に念願かなってNYへ戻った。しかし、我々はボロボロになっていた。次第に、若い同僚たちには婚約を解消される者、離婚の危機に陥る者、糖尿病になる者、アル中になる者、胆嚢摘出手術を受ける者、人工股関節の手術を受ける者、心臓の手術を受ける者などが続出した。本当に申し訳なかった。ただし、危機の中、諦めずにビジネスを守り続けたこれら若者らは、その後、高額のスタープレーヤーに成長した。

NYとは遠い所に住むアメリカ人のなかには、夜間にイラクへ向かって花火のようにミサイルが飛んでいく映像をまるでスポーツ観戦気分で観て、あのテロの事はスカッとけりが付いた人もいるかもしれないが、マンハッタンのダウンタウンで働いていた我々は、その後何年も苦められた。

 

私もそんな生活をしていたら脂肪肝になった。2004年、42歳の時、精密検査を受けた。検査後、ロッカー室で着替えていたら、担当医が突然入ってきて、今すぐ専門医に行けと泌尿器科専門医へ送られた。

専門医の待合室は20人以上の患者でごった返していた。妻を呼び出し2人で待った。重症みたいだ。たぶん癌だ。最悪の気分だ。次第に待合室の人が減り、3時間後には、私と妻の2人だけが静かになった待合室にポツンと残された。最後の患者が帰ってから30分以上がたった。不安がつのる。

すると、目の前をドクターXのようにスタイルの良い金髪美女が、ツカツカと通り過ぎ、診察室へ消えた。医師が出て来た。研修医を同席させたいと言う。承諾すると診察室へ通された。妻と並んで座り、机の向こう側には医師とさっきの金髪の若い美人の研修女医。そして、腎臓癌の告知が始まった。なるほど、一番後回しにされた理由が合点できた。告知された人が泣き叫び暴れ出したら収拾がつかない。研修医の到着を待ったのも、癌の告知とその対応を勉強させるためか。

なんだか映画みたい。他人事のような感じがして、事務的に会話が続いた。淡々と5年生存率はどうとか、腫瘍の位置からして、術式は腹腔鏡手術ではなく、開腹手術が良いだろうとかの説明が流れていった。こういう場合、どういう顔をすべきか、こっちも経験が足りず分からない。私のポーカーフェイスに、金髪の研修女医が退屈し始めた。手元にあるペーパークリップを広げてハート形を作ってみたり、広げた端を摘まんで、グルグル回し始めた。「おいおい、患者の生死の問題だぞ。30分も人を待たせておいて、それはないだろう、金髪さん。」これが私の人生初の癌の告知で最も心に残ったことだ。

 

あれよあれよという間に手術となった。ただし、そんな金髪さんとは関わりたくないので、Memorial Sloan Ketteringという癌治療では世界最高峰の病院のユダヤ系のベテランの女医先生に手術をお願いした。

開腹手術は無事成功。フィリピン人のおばちゃんとアメリカ人のどっしり安定感のあるおばちゃんの看護師が昼夜交代で面倒を見てくれた。全身が痛い。喉が渇く。時折、口の中に氷を入れてくれるのが嬉しい。モルヒネ漬けの私を親身に看護してくれた。

4日目にフィリピン人のおばちゃんは非番だった。代わりに若い金髪の美人看護婦が来た。妻は「なにデレデレしてるの」と詰るが、癌の手術なんて楽しいことなど何ひとつない。入院生活にこれくらいの楽しみがあってもバチは当たらない。嬉しそうに金髪さんの所作を眺めていると、左腕に血圧計を巻き始めた。いつもと逆の腕だ。そっちには点滴の針が入っている。「いや、そっちの腕は」と言いかけた途端にブーンと血圧計が腕を締め上げた。「ギャ~~~!」激痛。針の周りは紫に腫れあがった。金髪さんは”Oh!”っとビックリしているが、”But it’s too late, anyway.”と止めるでもなく血圧計を眺めている。赤い血が点滴のチューブを逆流した。

金髪さん達だから許しちゃうけど、こんな仕打は2度と御免だ。退院後の自宅療養中にリタイアすることを決めた。それまではウォール街でManaging Directorとして運用チームを率いて働くことに高揚感を感じていたが、すっかり冷めた。「あーあ、今月も100億円以上損をした。どうしよう」などと、血尿を流しながらストレスと戦い、アイデアがなかなか湧かないことに苛立ちながら、脳漿を絞るように投資戦略を練る仕事は私には向いていない。父は49歳で癌で他界したので、私は苦学した。一所懸命に働いたあげくに42歳で癌手術。早すぎる。いくら稼いでも、使う前に死んだら意味がない。

同じ頃、例の日英同盟の相棒で同い年の英国人も癌を発病。幼い子を残し、あっけなく逝ってしまった。私は幸い助かった。何が彼と私を分けたのだろう。かわからない。人生観が変わった。金髪さんにも感謝だ。2年間かけて後継者を育て体制を整え、2006年末にリタイアした。

 

ハワイに引越し、たまたまコーヒーと出会い、栽培を始めた。13年間で13キロも痩せて、血糖値も尿酸値も肝機能も改善した。金銭的には赤字で肉体的には辛くとも健康的。青い空と海を眺めながら赤いコーヒーの実を摘む。朝は庭からパパイヤやオレンジをもいで、海でクジラが跳ねるのを眼下にラナイで自分で摘んだコーヒーを飲む。夢のような日々。血反吐や血尿とは無縁な生活。あの頃に比べれば何倍も幸せだ。

健康的とはいえ、コーヒー栽培には肉体的にきつい仕事は多々ある。その一つが出荷作業。重いコーヒーを運ぶ力作業の連続。昔、ブラジルではコーヒーを何袋担げるかの力比べコンテストがあったらしい。

コーヒー栽培を始めたばかりの頃、100ポンドのコーヒー麻袋をトラックの荷台に載せようとしても、なかなか持ち上げられないのを見かねて、日頃お世話になっている90歳近い日系人の老人が、こうやって持ち上げるんだよと、ヒョイとトラックに載せてくれた。どうもコツがあるらしいが、いずれにしろ力のいる作業だ。

例年、1月に収穫が終了し、乾燥したコーヒー(パーチメント)をしばらく寝かせて、2月に精製所でパーチメントの皮を割って生豆にする。サイズ別に選別し、比重選別機で比重の軽い豆や欠陥豆を取り除き、100ポンド(45キロ)の麻袋に入れる。

鮮度を保つために航空便で送る。出荷当日は空港の作業場で、麻袋をビニール袋に2重に入れる。さらにそれを段ボール箱に詰め、それを木の台(パレット)に積み上げて飛行機で日本まで空輸する。

箱詰めする前に、USDA(米国農務省)とハワイ州政府の検査を受ける。それぞれの検査官が来て、豆の衛生状態や原産地やらの検査をして出荷の認可をもらう。

 数時間にわたる大変な力作業。ここ数年は力持ちのメキシコ人に手伝ってもらうが、数年前に60袋を妻と二人でやった。

海辺の空港の作業場は日差しが強く蒸し暑い。畑よりも5度以上気温が高い。炎天下にゼイゼイ息をあげながら、汗だくで作業。ところが、航空会社の係員は、全然手伝ってくれない。まあ、引き渡すまでは我々の責任だから仕方がない。私一人では重くて運べないので、妻も一緒になって何十箱も運ぶ。さすがに妻も私も腕と足腰がガタガタ震え始めた。

それに加えて、箱の積み方が悪いと、係員たちは色々と文句をつけてくる。こっちだって、もう疲労困憊。色々言われてもやり直す力は残っていない。積み方が悪くて問題ならば、少しは手伝ってくれても良さそうなもの。すがるような目で彼らを見上げても、職場の仲間と楽しそうに世間話をしているだけ。

すると、隣にピックアップトラックが止まった。運転席には金髪美人。黒いタイトなミニスカートに赤いハイヒールの若い金髪美女が降りて来た。荷台には5キロ程度の箱がたくさん置いてある。汗だくの我々は「あんな軽い箱だったら楽でいいなあ、でも、あのハイヒールとミニスカートでどうやって荷台に登るんだろう?」と眺めていたが、彼女は「リンダ困っちゃう」みたいな感じでたたずむばかり。すると、航空会社のオフィスから若い男たちが4人も飛び出してきた。他にもこんなにスタッフがいたとは知らなかった。彼らは嬉しそうに”Let me help you”と、あっという間に全部運び去ってしまった。金髪美女は”Oh, Thank you!”と舌っ足らずな鼻声で甘えながら若者に囲まれて涼しい顔。若者たちも金髪さんに力こぶを誇示しながら嬉しそう。

それを見ていたうちの妻、金髪さんが去った後、普段よりも一オクターブも高く、声をひっくり返して、若者たちの前で”Mmmm~Heavyyyy~”と言ってみた。しかし、ついぞ、手伝ってくれることはなかった。

この国では絶対に金髪は得だ。

2020/06/23   yamagishicoffee
山岸コーヒー農園は小規模ながら品質追求のコーヒー栽培をしています。
コナ・ルビーはクリーンな味わいのコーヒーです。
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